「15歳の頃、将来について何を思い、何を考えていましたか?」
そう問われて皆さんはなんとお答えになるでしょうか。
昨秋、中学時代の恩師から久々の連絡を受け、生徒の前で少し話して欲しいと依頼されました。気軽に引き受けたものの事前に送られてきた授業内容のレジメには中学3年生が「将来の職業選択や生き方を考える土台としての職業講話」と大それた題名が記載されており、何をどのように話したらいいのか少し悩んでしまいました。何しろ中学を卒業したのは30年も前のことですから思い出せないだけかもしれませんが、当時たいしたことは何も考えていなかったはずで、参考になるようなお話ができるか不安を覚えたからです。当日同様に依頼を受けた年代の違う異業種の方々も同様の思いでいたことにホッとしました。今にして思うと、私たちはいつしか数多くの重要な選択の機会に遭遇し、選んできたはずですが、その頃の自分にはその自覚がなかったように思えてなりません。しかしながら間違いなくその選択のすべてが自覚の有無にかかわらず今日の自分自身につながっているわけです。
今の時代、難しい選択が増えているように思います。スマートフォンを持つ年齢は早くなり、学校からもパソコンやタブレットを与えられインターネットにSNSなど、安易に情報を得られる半面、必要な情報は真偽定かではない大量の情報に埋もれてしまっています。無限にあふれ出てくる情報の中から、必要な、しかも正しいものを見つけ出し物事を判断し、選択していくのは若者に限らず、我々の年代に於いても容易なことではありません。
お釈迦様の教えに「自灯明・法灯明」というものがあります。
自灯明とは、自らの経験をもとに考え方や価値観を培い、自分自身の信念によって物事を判断していくことの大切さを説かれたもので、ここでいう経験というのが法灯明であります。つまりはお釈迦様の教えによって実現する物事を正しく見る方法、物事を正しく考える方法が法灯明であり、この法灯明をよりどころにして得られたものが自灯明であります。お釈迦様の生きられた時代からすでに2500年もの月日が経ちましたが、時代を超え、言葉を変えてその教えは現代に伝えられ、必要とされているのは間違いありません。
実際に授業が始まると熱心に話を聞く生徒さん達の姿がありました。これから悩みながらも無数の選択を繰り返していくであろう、その姿には、人生を作り上げていこうとする少しの不安と熱い情熱が見て取れました。この不安と情熱は年齢にかかわらず誰しもが心の中に宿しているものだと思います。生徒さん方の光り輝く未来を願うと同時に、自分自身の心に宿したものを今一度確認しなければならない、そんな気がした一日でした。
(文・北海道管内 等澍院 大久保 唯行)