天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第249号

一隅を照らす運動推進大会で琵琶奉納
 ー開祖の墓前で遺徳偲ぶー 玄清法流

 伝承法流の一つ玄清法流(梶谷隆幸統管)は11月11日、開祖玄清法印の墓がある福岡県糟屋郡宇美町の四王寺山(しおうじやま)山頂で開祖玄清法印一千二百年御遠忌法要並びに一隅を照らす運動推進大会を開いた。僧侶や信徒ら約70名が参列し、法要や琵琶奉納などを通じて開祖へ報恩謝徳を示した。(5面に関連記事)

 玄清法流は天台宗の4つの伝承法流の一つで、かつては琵琶祈祷による盲僧の流派だった。

 その開祖玄清法印は、現在の福岡県太宰府市近郊に生まれ、7歳で得度し仏門へ入るも17歳の時に眼病を患い失明する。

 そして20歳の時、盲僧の祖インドの阿那律(あなりつ)尊者の残した地神陀羅尼経を後世に伝えるべく四王子山に籠もり、21日間断食して琵琶を弾奏しながら経を唱えて祈願した。

 すると満願の朝に四天王が現れ、比叡山に登り聖者を助けよとのお告げを授かり登叡。伝教大師と出会った。  
 
 根本中堂の前身である一乗止観院を建立中だったが、大蛇に阻まれ工事が困難を極めていたことを聞いた玄清法印は、琵琶を弾奏して地神祈祷を行ったところ大蛇の難は消除したと伝えられている。

 その後、故郷にもどり四王寺山麓に堂宇を建立。琵琶を弾奏して仏法を弘めるなど、様々な功績を残した。

 ゆかりの四王寺山山頂には、天保年間に建立された墓とされる石碑が建てられているが、登山者などの一般の人々には浸透していなかったという。

 玄清法流では、玄清法印が亡くなって1200年の節目を迎えたことから、200年ぶりの改修に着手。墓の前に御遠忌法要が営まれた日付と寄進した僧侶の名前を刻んだ頌徳碑を新たに設えた。

 四王寺山山頂での法要並びに一隅を照らす運動推進大会は、玄清法印之墓と記された墓石前で奉修された。

 頌徳碑の除幕式を行ったあと、玄清法流の僧侶らが出仕して梶谷統管を導師に一千二百年御遠忌法要が営まれた。

 般若心経では、荒神琵琶を起源とする筑前琵琶福岡旭会の米村旭翔会長ら2名も加わり、5本の琵琶で合奏。城戸清賢妙音寺住職が佛説大荒神施與福徳円満陀羅尼経を弾奏し開祖の遺徳を讃えた。

 続いて一隅を照らす運動推進大会で、天台宗の甘井亮淳参務・法人部長が「玄清法印は天台宗の開宗に尽力されたお一人」と挨拶。また水尾寂芳延暦寺執行は「今年の比叡山からの言葉は『開発真心(かいほつしんしん)』だった。

 嘘偽りのない真心を開き発(お)こすと必ず相手に通じる。それは仏性。一人ひとりの仏性を開発しましょう。これが一隅を照らす運動の柱でもあると思っている。

 この法要が、自分の心の中にある仏の心に光や水を当て、しっかり成長させるきっかけになることを願っている」と参列者に呼び掛けた。

 梶谷統管は「100年ぶりに墓前で法要ができたことは感無量。新たに建立した碑を見て、玄清法印の功績を多くの人々に知ってもらいたい」と話している。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

わたしたちは、年々老いていくのでなく、日々新しくなっていく

エミリー・ディキンソン

 「夢をはらむ孤独者」と呼ばれているアメリカの詩人エミリー・ディキンソンの言葉です。
 
 彼女が生涯で手がけた詩は1800近くあるとの事ですが、生前に発表されたものは10篇ほどで、ディキンソンが詩人として世に広く知られるようになったのは死後随分経ってからでした。ディキンソン自身がこの言葉を体現しているように思えますね。

 かつては誕生日を迎えると心を踊らせた時期もありましたが、次第にその思いは薄れ、いつしか年相応に何かをしなければと焦りが募り歳を重ねる事が億劫になってきます。

 過去の自分と比べてこれが出来なくなった、周囲の同年代と比べて自分はここが足りていないなどと頭を悩ませることは増えたかもしれません。

 しかし、この世の全ての存在は「諸行無常」ですから私達が歳をとらないなんて事はありえません。そして、「諸法無我」です。

 様々な繋がりから成り立ち変化し続ける為、実体がありません。「年甲斐もなく」や「いい歳して」という表現があります。年齢という枠組みに囚われ自分をそこに無理やり押し込もうとしている印象が強い言葉ですが、諸法無我ですから本当の自分というのが固まることはなく、常に新しい自分に変わり続けるのです。

 自己と向き合い、今まで知らなかった自分の姿をありのまま受け入れる。その積み重ねこそが歳を重ねるということなのかもしれません。

 皆さんは2023年、どんな新しい自分に出会えましたか。2024年はどんな新しい自分と出会えるでしょうか、楽しみになってきました。

鬼手仏心

桜のエンブレム

 ラグビーワールドカップフランス大会が、南アフリカの2連覇で幕を閉じた。

 古い話になるが、友人が大学の応援部で、その年の実業団ラグビーで優勝するフジタ工業の応援団を指導した縁で、日本選手権の試合のチケットが手に入った。

 私も国立競技場へ観戦に出掛けた。「え、これだけ?」という観客の入りだった。

 その後のスター選手といえば新日鉄釜石の松尾雄治、同志社大学の平尾誠二だった。残念ながら日本ラグビーは世界レベルではなかった。

 泥にまみれた大男たちがぶつかり合う、気を失って倒れたら、魔法の水と称するやかんの水をかける。根性という言葉が幅を利かせていた。

 荒々しいイメージの競技にビジョンを持ち込み、日本代表監督として革新していったのが、故平尾誠二だった。ワールドカップ出場を本気で目指した。ルールを覚えたファンも増え、「日本ラグビー」が育ち、ワールドカップ出場が続くようになった。

 前々回のイングランド大会では、南アフリカを試合終了間際に逆転トライで破った。

 前回の日本大会では決勝トーナメントに初進出した。

 そして、今回のフランス大会では、予選リーグ2勝2敗の成績で、決勝トーナメントは逃したが予選リーグで敗れた2チームは3位決定戦を戦った。

 選手のコメントに「規律」という言葉が多かった。特に後半、自陣で反則を犯さないこと、スクラムの攻防を制することがチームを勢い付け勝負の行方を左右することを意識していた。

 「規律」という名のもとに新チームが編成され4年後に、再びベスト4を目指す。ブレイブブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)のエンブレムの花が開く。

 4年前の日本大会、名神高速上り大津SAで、日本戦に臨むため移動中のサモア選手団に遭遇した。

 ソフトクリームを両手に持っていた。強くて優しい大男たちは、スーツを身に纏(まと)い、窮屈そうにバスに乗り込んでいった。

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