天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第247号

第37回世界宗教者平和の祈りの集い
ドイツ・ベルリン

イタリアに本部を置くカトリックの信徒団体「聖エジディオ共同体」が主催する「世界宗教者平和の祈りの集い」が9月10日から12日まで、ドイツ連邦共和国の首都ベルリンで開催された。天台宗からは名誉団長に杉谷義純宗機顧問会会長(妙法院門跡門主)、阿部昌宏天台宗宗務総長を団長とする10名の使節団を派遣し、世界の諸宗教指導者らと世界平和への祈りを捧げ、対話による友好を深めた。

ー平和へ大胆な歩みをー

 「世界宗教者平和の祈りの集い」は、1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ二世聖下の呼びかけでイタリア・アッシジで開かれて以来、毎年ヨーロッパ各地で開催しており、今年で37回を数える。

 今回は「平和の大胆さ」をテーマに、10日の開会式にはドイツのシュタインマイヤー大統領、ギニアビサウ共和国のエンバロ大統領ら要人、またキリスト教、イスラーム、ユダヤ教の各指導者が演説し、世界から集った宗教者らに期待を寄せた。そして聖エジディオ共同体の創設者の一人であるアンドレア・リッカルディ教授からは「もっと大胆に平和への対話を続け、ベルリンの壁が崩壊したように不可能と思われる壁の先へ大胆に歩むことが大切だ」と今大会の趣旨が述べられ、会期中の対話と友好を促した。

 翌11日からは市内各所20会場で分科会があり、そのうちの一つで杉谷名誉団長が「世界平和実現のために価値ある宗教間対話」と題し発言した。杉谷名誉団長は、諸宗教対話の歴史を振り返り、紛争和解に尽力した宗教者らを讃えた。

 そして「立場が異なると思われる相手、又は自分にとって正義と思われない相手であっても常に対話を拒まず、対話の窓口を開いておく必要がある」と提言すると、会場は賛同を示す拍手に包まれた。

 最終日の12日午前中に開かれた分科会では、阿部昌宏団長が「アジアの宗教と平和の追求」をテーマに講話し、宗祖伝教大師の『忘己利他』を紹介。

 「慈悲の精神を実践することが今こそ求められている。真の世界平和実現には、互いの価値観の多様性を認め、共生する姿勢が必要だ」と訴えた。

 また午後には杉谷名誉団長導師のもと、日本仏教代表者による世界平和祈願法要が営まれた。細野舜海宗議会議長、小寺照依延暦寺副執行、峯岸正典曹洞宗ヨーロッパ国際布教総監、宮本惠司妙智會教団法嗣、赤川惠一立正佼成会国際伝道部部長が出仕した。

 祈願文が奉読され、多くのベルリン市民らも随喜して、共に世界平和実現を祈願した。

 日程中、使節団は諸宗教指導者らと友好を深めたほか、杉谷名誉団長がドイツのオラフ・ショルツ首相が講演した分科会会場への特別招待を受けた。また、阿部団長がイタリアのアントニオ・タヤーニ副首相兼外務・国際協力大臣と会話を交わすなど国際交流にも一役買った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

自分より若い人は、教えたり叱ったりするだけの対象ではありません。逆にこちらが教わることもあります。

坂東眞理子

 最近話す機会のあったZ世代の若者が、自分の服を買うときに「サステナブル」を意識している、と言いました。
 Z世代とは1990年終わり~2010年代初めに生まれた人たちを指します。

 「サステナブル」とは「持続可能な」という意味で、環境問題に配慮した取り組みです。ここでは、古着であったり、リサイクル素材などからできた服であったりを指します。
 
 また、彼らは「フェアトレード」にも関心があり、それらの服飾雑貨などを積極的に自分のスタイルに取り入れている、とのことでした。「フェアトレード」とは開発途上国の原料や商品などを適正価格で買うことによって、その生産者や労働者の生活改善や自立を助けるものです。

 一方、自分が若い頃は…と考えると、そのような環境問題に対する意識であるとか、経済的な格差に対する意識であるとかは、買い物をする際に一度も考えたことがないことに思い至りました。

 彼らは周りも普通に持っている考え方なので、それが「おしゃれ」なのだと言っています。心から脱帽しました。

 まさに「利他」の精神そのものを、彼らの生き様に自然に取り入れていると思いました。
 
 この世代は生まれた時からインターネットが利用できたので、主な情報源はインターネットです。テレビ世代の私たちとの価値観の違いを感じてしまい、コミュニケーションを取りにくく感じることがあります。

 これらのすれ違いから「最近の若者は…」と近年は嘆きたくなることも多くありました。

 しかし、これからの世界を背負っていく上で頼もしい価値観を持つ彼らに学ばせていただこうと思うこの頃です。

鬼手仏心

京アニ事件に思う

 4年の歳月を経て、京都アニメーション放火殺人事件の裁判が始まった。

 彼は初公判において「こうするしかないと思っていた」と陳述し、死傷者の多さには「やりすぎた」と述べたという。

 『やる』即ち一連のことを実行する彼の心中の妥当性・正当性はいかに形成されたのだろうか。

 報道によれば、被告は幼少時に虐待に遭い、両親の離婚など恵まれない生活環境に置かれ、社会人生活も順調とはいかなかったごとくであるが、かかる類例は多くあり、兇行(きょうこう)を是認することには無理がある。「他責思考」すなわち「他人や周囲の環境に、ものごとの原因や理由があるとする考え方」によるものとの識者の見解もあった。

 また、「秋葉原無差別殺傷事件」などからの触発もあったごとくながら、なお幾何(いくばく)の不足を感じている。要因として自心の裡(うち)に強固に形成された「被害者意識」が有って、強く作用したと思えてならない。自らを「作品を盗まれ、社会からも疎外された」被害者と確信することで、自責の心情は薄れ、起こった結果も自心には正当化されて身勝手に免責することとなる。

 これらは、「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」の心映えに支配され、慈悲を旨とする仏教の基本、自己犠牲をも厭(いと)わずに他者救済にあたる菩薩とは真逆の思考・行為でもある。

 上来の意味において、他に原因を求めて自己を免責する被害者意識は、当事者を悪く呪縛し、受け入れがたい行為にも駆り立てる作用を持つようである。

 かかる心情に至ることを回避し、自分と周りを不幸にしない、その為に伝教大師の「怨を以て怨に報ぜば、怨止まず、徳を以て怨に報ぜば、怨即ち尽く。」とのお示しを肝に銘じながら裁判を見守り続けたい。

ページの先頭へ戻る