天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第243号

能登地震で珠洲市の2カ寺と檀信徒に被害

石川県に義援金寄託

 石川県能登地方で震度6強を観測する地震が5月5日に発生した。

 最大震度を観測した珠洲市には翠雲寺と藥師寺があり、両寺の建物や檀信徒の家屋などに被害が出た。

 天台宗では、すぐさま関係各所に被害状況を確認して対応。

 一隅を照らす運動総本部では能登地方地震災害義援金を石川県に寄託することを決めた。

 天台宗務庁では、地震が発生した5日に、震度が大きかった北陸、信越の両教区の宗務所長に電話連絡し、被害状況の確認と報告書の提出を依頼。報告書の提出を待って対応することを決めた。

 珠洲市の翠雲寺(岩尾照尚住職)では、2度の大地震で、本堂と庫裏の屋根瓦が落下。棟瓦にもズレが生じる被害を受けた。

 境内の市指定文化財の石塔五重塔、地蔵像2体、墓石10基が倒壊した。本堂と庫裏では6日からの降雨で雨漏りも発生し、室内にも被害が及んだ。

 余震による影響も深刻で、10日に発生した地震では、酒井雄哉大阿闍梨謹書の寺号碑も倒壊の危険性が高まっている。
 
 また同市の藥師寺(井上惠照住職)では、ガラスの破損、柱のズレや壁にヒビが入るなどの被害が報告されている。両寺の檀信徒の家屋等でも被害は大きいという。

 翠雲寺の岩尾住職は「珠洲市で感じた地震では過去最大の揺れだった」と発生当時を振り返り「今回の地震は本堂内外に大きなダメージを与えるものだった。

 翌日の雨で雨漏りも発生し、早急に屋根を仮修繕して対応したが、余震が収まってからの本格的な修理を待たねばならない状態。

 檀信徒らは今も地震が続くことや家屋の修繕などへの不安を抱えており、心のケアが必要になってくる」と話している。

 一隅を照らす運動総本部では、能登地方地震に対し、緊急救援引当金からの義援金、また地球救援事務局に指定寄付として信越教区仏教青年会と1カ寺から寄せられた約6万円を合わせた106万4855円を5月24日付けで石川県に送金した。

 政府の地震調査委員会の報告では、これまでに存在が知られている能登半島の北側にある活断層ではなく、「伏在断層」と呼ばれる地上に現れていない断層や知られていない断層が動いて発生したと説明しており、引き続き注意が必要と呼び掛けている。

 天台宗でも、北陸教区宗務所と連携を取りながら被災地の状況を注視していく。


 令和5年石川県能登地方を震源とする地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

天台宗
一隅を照らす運動総本部

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。     

太宰治

―青空もこのごろは、ばかに綺麗だ。舟を浮べたいくらい綺麗だ。山茶花の花びらは、桜貝。音たてて散っている。こんなに見事な花びらだったかと、ことしはじめて驚いている。―

 『走れメロス』や『斜陽』などの名作を世に送り出したことで知られる太宰治の『新郎』から抜粋したものです。

 自分のすぐ近くにこんなに美しい情景が広がっているのだから、未来を憂いていないで今を大切に生きようという前向きな「私」が、こっそり飲食店から包んでもらった料理を家族に振舞ったり、馬車で銀座に行こうとして乗車拒否を受けたりなど何気ない日常を書き連ねられています。そして、

―このごろ私は毎日、新郎の心で生きている。(昭和十六年十二月八日之を記せり。この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。)―

 と締めくくられています。この作品を書き上げたのは太平洋戦争の開戦日だったのです。

 その事を踏まえて冒頭の文を読むと全く意味が異なってきます。まるで、余命宣告を受けた人が、何気ない日常の尊さを改めて噛み締めるかのように。

 いつ戦場に駆り出されるか分からない状況でも「人には優しく暮らしたい」という「私」は、家を訪ねてくる学生を追い返すことなく話を聞き、執筆作品に対する意見の手紙にも真摯に返信する描写が見られます。

 「生ける時、善をなさずんば、死する日、獄の薪とならん」と伝教大師はかつて仰いました。
 
 私達は永遠に生きることはできないし、死期を知ることもできません。青年だった最澄さまはそれでも「死を恐れて何もしないでいる自分と決別して、新たな一歩を踏み出す決意」をされました。

 太宰がそこまでの意志を持って執筆したかは分かりませんが、作中で叔母へ向けた手紙に「私は文学を、やめません。私は信じて成功するのです。」と書いています。

 来るか分からない明日の事より今を生きる事だけを考える、だけど作品を書き続ける自分の姿は「信じて」いたようです。

鬼手仏心

別れの言葉 

 3月3日、東京の駒込高等学校の卒業式に3年ぶりに出席した。卒業生484名、保護者出席1名の制限があったが、講堂に約1000名が集った。

 卒業証書授与、褒賞授与、来賓祝辞と式次第が進み、2人の女子生徒が登壇して「別れの言葉」を述べた。抜粋して紹介したい。

 「3年前、私たちはあこがれだった制服に身を包み、不安とともに正門を通るはずでした。しかし、それはコロナウイルスの流行により儚い夢となりました。

 また、部活や恋に明け暮れ、勉強に勤しむ高校生活が突如、奪われた瞬間でした。オンライン授業、分散登校によりクラスの半分としか、顔を合わせることができませんでした。比叡山研修、玉蘭祭(はくれんさい)はともに中止。

 日常というものが、いかに尊いものなのかを実感させられました。いつもの道をいつも通り登校する。そのありがたみを私たちは苦しいほどよく知っています。

 アルバムはマスク顔の写真ばかり、消えた試合、消えた文化祭、消えた修学旅行、あの時失われたもののすべては、私たちの青春になるはずだった。

 でも、いつだって私たちを救ってくれたのはマスクで遮られても、消えることのなかった最高の仲間たちの笑顔でした。思い描いたような青春じゃなかった。でも、私たちは失ってばかりではありません。」

 歴史や社会は大人が動かしたように思えるが、社会の変化後、新秩序を担ったのは若い人の力だった。常に制限が付きまとった高校生活を経験したこの世代がコロナ後の社会のルールを創造していく。

 日常が戻りつつある今、新1年生406名は5月22日から、2班に分かれて2泊3日の比叡山研修を行った。

 入学式と共に感染症に青春を奪われた生徒、生徒を必死に護り、格闘した先生方の3年間の貴重な記録である卒業式の「別れの言葉」が、感染症への別れの言葉になることを願っている。

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