
子どものころから、「負けるが勝ち」と教わってきました。分かるようで分からない言葉です。負けたところで賞金が貰えるわけがないのに、どうして負けたほうがいいのだろうか……と、首を傾(かし)げるばかりです。
そういえば、美空ひばりが、
《勝つと思うな 思えば負けよ》
と歌いました(『柔(やわら)』関沢新一作詞、古賀政男作曲)が、あれもわたしには意味不明でした。「あなたが勝とうと思った瞬間に、もうあなたは負けているのだ」といった意味なのか、あるいは「勝とうと思わないほうがよい。思うのであれば、負けようと思うべきだ」の意味なのか。まあ、たぶん前者のほうでしょうね。
そこで『大辞林』をひいてみたら、「負けるが勝ち」には、
《むりに争わず、一時的に相手に勝ちを譲ることが結局は勝つことになる》
といった解説がありました。これを読んで、わたしは、〈なんだ、それなら結局は勝ちたいのだ。勝とうとしているのだ。その勝つための方策として、一時的な敗北もあり得ると言っているだけにすぎない〉と思いましたね。ずる賢いやり方です。
そう思ったとき、わたしは、「負けるが勝ち」に対する、もう一つ仏教的解釈を思いつきました。それは、世間の解釈とは、まったく違ったものです。
世間の人は、みんな、〈勝ちたい、勝ちたい〉と思っています。そして、勝つために歯を食い縛って努力します。それは、つまりは相手をやっつけたいのです。相手を敗北者にしないことには、自分は勝者になれません。
そして、勝者は一人で、敗者は大勢います。最終段階においては一対一の闘いになるかもしれませんが、その段階に達する前には、大勢の競争参加者を蹴落とさねばなりません。しんどいことです。と同時に、相手をやっつけるためには、自分の人格も相当に傷ついているのです。この点を、世の競争讃美者は忘れています。他人の敗北を願う人間のあさましさに気づいていません。
そこで仏教者は、「負けるが勝ち」と考えます。
といっても、わざと負けようとするのではありません。勝つことに努力するのですが、その背後に、
︱負けたかてかめへんやんか︱
といった気持ちがあります。なんだか急に大阪弁になりましたが、わたしは、その気持ちが大事だと思います。自分が敗者になっても、競争の勝者を祝福してあげられるだけの気持ちを持つこと。そのような気持ちを持てたときが、その人は「人生の勝者」になったのだと思います。
ですから、「負けるが人生の勝ち」です。そして、勝つのであれば、「人生の勝者」になりたいですね。それが仏教においての「負けるが勝ち」だと思います。