
わたしたちは、人を殺してはならないと教わっています。しかし、実際には、日本の国家は死刑制度を存続させ、犯罪者を死刑にします。死刑は、国家による殺人です。だとすると、国家は人を殺してもよいのでしょうか!?
また、戦争の場合は、兵士は敵兵を殺すことが認められています。いや、むしろ敵兵を殺すことが奨励されているのです。とすると、人を殺してはならないというのはまちがいで、場合によっては人を殺してよいということになります。
同様に、嘘をついてはいけないというのも本当ではありません。現実に多くの政治家が嘘をついて国民を騙し、企業の経営者がさまざまに嘘をついていることは、新聞やテレビで報道されています。また、市民の生活においても、「嘘も方便」といって、目的さえ正しければ、その目的を達成するための手段としての嘘をつくことが容認されています。たとえば父親ががんになったとき、その父親をがっくりさせないために、子どもが、
「お父さんはがんじゃないよ。良性の腫瘍だよ」
と嘘をつくことは、むしろあたりまえに思われていました。もっとも、この問題に関しては、最近はちょっと事情が変わってきました。しかし、家族のあいだで、相手を失望させないように嘘をつくことは、それほど悪いこととはされていないようです。
だとすると、わたしたちは子どもに、
−人を殺してはならない−
−嘘をついてはならない−
と、頭ごなしに教えることは、まちがった教育ではないでしょうか。それだと、国家がやっている殺人行為や、大企業がやっている欺瞞の行為には頬被(ほおかぶ)りして、弱い庶民をいじめることになりそうです。
わたしはむしろ子どもたちには、こう教えるべきだと思います。
「世の中の人には、自分の利益のために他人に嘘をついて騙すことが多い。また、相手を庇うために嘘をつくこともある。そしてまた、人を殺す者もいる。けれども、あなたは、人を殺さないでほしい。また、どんなに苦しくなっても嘘をついて逃げないでほしい。あなたは仏の子なんだから、それができるはずだ」
わたしたちは、ややもすれば、多くの人が嘘をついているから、自分だって少しぐらいの嘘をつくことも許されるだろうと考えてしまいます。つまり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった考え方です。でも、それは仏教の精神ではありません。仏教の精神は、赤信号なのに、みんな渡っているが、ぼくは渡らない−というものです。
みんなに引き摺(ず)られないで、わたしだけはこうするというのが、仏教の精神です。でも、それがいちばんむずかしいことですね。