
東日本大震災からまもなく15年が経とうとしています。震災によって多くの生命や生活の場を奪われ、未だにかつての日常を取り戻せず過ごされている方もおります。
当時、東京電力広報部に勤務していた私にとって、忘れたくても忘れられない、そして忘れてはならない経験となりました。情報が錯綜し、怒号が飛び交う災害対策室や記者会見場の様を、今でも夢で見ることがあります。
会社の前にはデモ隊が張り込んでいるため、裏口からこっそり退社し、人混みに入って初めて安堵する。原発事故によって、未だに旧経営陣の責任や賠償訴訟が続いておりますが、すべての社員が肩身の狭い、まるで犯罪者のような生活を強いられました。社員のみならず、その家族にも影響は及びました。自殺したり鬱病になったり、子供達がいじめにあったり、結婚が破談、離婚を余儀なくされるといった、間接的に日常を奪われた者たちが他にもいたことをご存知でしたでしょうか。
我々は大惨事が起こると、ストレスや応報感情を満たすため、必ず誰かをバッシングの対象にします。それは加害者本人とは限らず、攻撃しやすい人がターゲットにされるのです。犯罪であれば、塀の中にいる加害者よりも、社会にいて攻撃しやすい家族がバッシングされたりするのです。多くの同僚は、惨事の責任を重く受け止め、ただ「今できること」を全うすることに尽くしておりました。
ここで考えていただきたいのは、仮に皆さんの家族・親族が勤める会社が重大な犯罪をしてしまった場合、皆さんならどう受け止めますか。もっと身近に考えるなら、皆さんの家族が人を殺めた場合を想像してみてください。周りの目は「家族も同然」という見方をするのではないでしょうか。でも、家族として一緒に時間を過ごしたという事実はあっても、その家族を責める理由がはたしてあるのでしょうか。我々は責めるべき対象がいない、もしくは曖昧な場合、身近な対象者に的をすり替えて責めようとしてしまう、ということを認識してほしいのです。
当時、国内外から何百・何千という大量の問い合わせメールが、担当であった私に届きました。そのほとんどが「どう責任をとるんだ」「これまでの生活を返せ」「死ね」「くそ野郎」という誹謗中傷ばかりでした。しかし、僅かながら「東電は悪くない」「現場で必死に取り組まれている社員にエールを送りたい」「がんばれ」といった心温まるメールや、海外から「我々の技術を無償で使ってくれ」等の協力応援メールがありました。その言葉にどれだけ励まされたかわかりません。読んだ瞬間、自然に涙がこぼれました。圧倒的な罵詈雑言の中、少数ではあれ温かな言葉をかけられる人がいる。時勢に流されず、しっかりと何が真実かを見極め客観的に判断する、まさに「真実の見方」の大切さを体感したのが、この時でした。
私は震災後2年で退職を決め、新たに天台僧としての道を選びました。
「真実の見方」とは、“世の中のすべての現象やあるがままの姿を、仏の智慧をもって正しく見ること”であり、法華経では「諸法実相」と説かれています。自分の物差しによって善悪や好き嫌いを判断・評価するのではなく、“仏の智慧”を以て「相手の立場に自らを置き換え行動」すること。今は僧侶となった私が、もっとも大切にしている心掛けです。
(文・栃木教区 安養院 畠山 慈朋)