天台宗について

法話集

No.223「頑張る」ではなく「気張る」

 比叡山での修行中のことです。夜の一時半位に出発して、比叡山を巡礼してから山麓にある日吉大社のお参りが終わると朝方になり、「里坊」と呼ばれる坂本の街並みが見えてきます。延暦寺の住職方の寺院が並んでいます。その一ヵ寺に、律院というお寺があります。律院は、代々千日回峰行を満行された大阿闍梨様がご住職をされています。早朝に律院の前を通ると大阿闍梨様が門前で「気張っていけよ!」、と修行者に声を掛けて下さるのです。

 この「気張る」という言葉、最初は聞き慣れなかったのですが、修行をしながら噛みしめるようになり、大好きな言葉になったのでした。と言いますのも、私達がよく使う「頑張る」という言葉。この言葉には、実はネガティブな意味もあります。「頑張る」の語源は二つ説があり、「眼を張る」と「我を張る」です。眼を張るというのは、一定の場所から動かない、と言う意味から転じて努力してやり通すこと。もう一つの「我を張る」は字の如く、自分を押し通すという意味を持っております。語源を知っていると「頑張ります!」と言う時には少し躊躇してしまうかもしれません。また、精神的に弱っている人に「頑張って」と声をかけることは、更に追い込んでしまうことになるので、気をつけなければなりません。

 その点、「気張る」という言葉は、字の通り「気」を張るので、我を張ることとは意味合いが異なります。修行中、何かしんどいことがあった時に肝要なことは、自らの気を研ぎ澄ますことでした。「気」を用いる言葉は日本語に多くあります。「気遣い、気休め、気づき、気疲れ、気が利く、気を抜く…。」人間誰しも、「気」という見えないものを持っていますが、脳と同様に、使うか使わないかで大きな差が生じます。使えば使うほど磨かれていくようです。

 修行中に気を抜くと、思わぬ怪我をしたり、危険な目に合う可能性があります。また、気が緩むと魔が差したり、足元をすくわれることになりかねません。だから気を張るように檄を飛ばして下さるのです。また、気を張ることによって意識が「自」ではなく、「他」に向かうようになります。そうすることによって力も沸き起こり、精神も研ぎ澄まされていくのです。改めて、「気」というものに着目してみると新たな発見があるかもしれません。そして、普段の生活でも、我を張るのではなく、気を張ることによって利他的になり、難局や問題を乗り越えることが出来るかもしれません。


(文・東京教区 小野 常寛)
掲載日:2023年01月01日

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