天台宗について

法話集

No.162「心を配る」ということ

 私が住職をしている寺は宿坊をしております。宿坊と聞けばすぐに精進料理、と思い浮かべる方も多いと思います。精進料理は肉類や香りのきつい物を使わず、野菜を中心とした料理ですが、それでも野菜の命を奪っているのですから、調理する側も日々精進を積まなければなりません。
 一方で、宿泊のお客様を見ていると本当に色々な方がいます。参拝のために宿泊されるのですから、信仰に熱心な方もいれば、どこかの旅館やホテルと勘違いされているのか我儘な方も大勢いらっしゃいます。立ち振る舞いはもちろんですが、食後のお膳の様子を見ればそのことは一目瞭然です。綺麗に食べておられる人もいれば、どの料理も少しだけ突っついて残している人、お皿の上をひどく汚くしている人もいます。そんな時、この人は家でもどこでもそうなのかな?と思ってしまいます。

 精進料理は何と言ってもヘルシーですし、見栄えも鮮やかでアイデア満載の料理です。ですから若い人にはおしゃれ感覚で受け止められている感じがありますし、関係書籍もたくさん売られていますから、その気になれば十分レシピ通りには作れるでしょう。でもこれって何か違うんですよね。

 天台大師は『摩訶止観』の中で、「運心」ということを説いています。つまり「心を運ぶ」、簡単に言えば「心配り」と言った方が今の人にはピンとくるかもしれません。調理する側も季節とか、食材や食べていただく人に対して心を配り、いただく側も調理してくださった方や食材に対して心を配る。それだけではありません。いただいた後は、片付けし易いようにお皿を整えてあげる、油物のお皿とそうでないお皿は重ねない、などなど考えてみれば結構大変です。これはなにも食事だけに限りません。心配りは一事が万事なのです。

 こう考えてみると、「心配り」というものは立派な修行なんですね。それも天台大師がおっしゃっているのですから、私たちはなおさら自分のこととして考えなければいけないと思います。
 食事に関して言えば、我が家では外食に出かけると、食事を終えるやすぐにお皿を机の端に片付け始め、おしぼりやゴミは一箇所にまとめ、片付けし易いようみんなで共同作業に入ります。これって、端から見れば慌ただしく見えているかもしれません。でも、これも修行のつもりで…いえいえ、単に職業病です…たぶん。


(文・信越教区 本覚院 小林 順彦)
掲載日:2017年09月01日

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