天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第86号

十年に一度の荒行に挑む
-大分・国東半島 六郷満山会-

 神仏習合の郷・大分県、国東半島にある天台宗寺院でつくる六郷満山会(石光順照会長・大聖寺住職)は、去る三月三十日より四月四日までの六日間にわたり「六郷満山峯入」行を厳修した。この行は国東半島にある六郷満山の開祖・仁聞菩薩(にんもんぼさつ)の修行の聖地を巡拝し、険しい山や谷を約百五十キロの行程で踏破する荒行で、十年に一度行われる大業。峯入りには、天台僧約三十名と、連日に亘って一般行者百数十名が参集、無事満行を果たした。

 この峯入りは、仁聞菩薩が厳しい六郷二十八谷を回峰し、修行した霊跡を巡拝する行で、斉衡二(八五五)年に始まったといわれる。その後、中断・復興を経て、嘉永六(一八五三)年を最後に中絶していたが、昭和三十六(一九五九)年、百六年振りに再興された。近年では十年ごとに行われており、一番最近は平成十二年の奉修。今回の大先達は、秋吉文隆文殊仙寺住職、先達は河野英信富貴寺住職がそれぞれ務めた。
 初日三十日、これまで参拝だけであった御許山にある宇佐神宮の奥宮・大元神社で、開白護摩供を修し、峯入りの無魔円成を祈った。続いて麓の宇佐神宮本宮を参拝。
 三十一日は、熊野磨崖仏(豊後高田市)の不動明王尊前で採灯護摩供を執り行い、道中の安全を祈願した後、峯入り行者一行は白装束にわらじ姿、錫杖を手にした僧侶を先頭に、百五十キロに亘る行をスタートさせた。この日は麓の胎藏寺、伝乗寺、岩脇寺を参拝、富貴寺近くの田んぼでの岩とび、富貴寺、智恩寺、妙覚寺などを巡り、長安寺に到着し宿泊。
 三日目の一日は、長安寺を午前七時に出発。豊後高田市長岩屋地区の川中不動、天念寺を参拝し、道中最大の難所である「無明橋」へ。「無明橋」は、高さ百八十メートルの絶壁に架かる石橋で、幅は一・二メートル、長さ六メートル弱。欄干、手すりなどはないが、信仰心が有れば、落ちることはないといわれる。この日も行者一行は、鎖を伝って絶壁の岩山を登り、躊躇することなく渡り終えた。
 後半の二日から五日も連日、各聖跡を巡拝、三日の夕刻に最終目的地の両子寺に到着。翌四日、同寺において結願護摩供を奉修し、六日間の荒行「六郷満山峯入」は満行を迎えた。

 六郷満山

 国東半島の中央にある両子山から放射状に約二十八の谷が広がっており、その谷を六つの郷に分けて六郷とよぶ。そこに開かれた天台宗寺院を「六郷満山」という。
 本山(学問の地)・中山(修行の地)・末山(布教の地)の三山の組織を形成しており、これを総称して「満山」と呼ぶ。ほとんどの寺院が仁聞菩薩の開基といわれ、千三百年の歴史を誇る。
 全国八幡の総本社である宇佐神宮の庇護と影響の下、奈良・平安・鎌倉時代を通じ、神仏習合の華麗なる仏教文化を生み出した。天台宗の波及とともにめざましい発展を遂げ、最盛期の平安後期には、六十五カ寺・宿坊も八百を越えたといわれている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

こころを持って生まれてきた
これほど尊いものがあろうか
そしてこのこころを悪く使う
これほど相すまぬことがあろうか

仏教詩人/坂村 真民

 「殺すのは、誰でもよかった」という動機のない殺人が頻発しています。またわが子、あるいはつれ合いの子どもを虐待の果てに殺すという事件が連日のように報道されています。
 これまで、人を殺すのは抜き差しならぬ葛藤の果てというのが普通(?)で、少なくとも「殺すのは誰でもよかった」というような殺人は日本にはありませんでした。また、誰しも「子どもは目に入れても痛くない」ほど可愛いものだと信じ「母の愛は海よりも深い」ことを疑っていませんでした。報道されているのは特別な事例にせよ、これまでの常識が崩れていることが私達を震撼させています。
 一方では、生きる喜びや、生きる意味をしだいになくしつつある人々が増えているとも指摘されています。現代社会は、家族や慈悲や愛よりも物質や現金に重きが置かれています。いいかえれば「私は、家族よりも、欲望や快楽が好きだ。お金のほうを信じたい」ということです。
そのことは「お金が儲かるなら、何でもよかった」ということになります。実際にヘッジファンドによってアジアに通貨危機がもたらされ、大混乱を引き起こしたことは記憶に新しいところです。そうした個々の人間の幸福を無視し「お金がすべて」という考え方を正義とするならば「自分はお金を持っていない。だから殺すのは誰でもよかった」。あるいは「遊びたいから、うるさいから、邪魔な子どもは殺そう」というところまで、あと一歩です。
 家族や地域社会を大事にし、祖先に感謝し、文化を尊ぶことに立ち返る必要があります。
 坂村さんは「このこころに/花を咲かせること/小さな花でもいい/自分の花を咲かせて/仏さまの前に持ってゆくことだ」といっています。

鬼手仏心

時代おくれ  天台宗参務社会部長  村上 圓竜

 
 私は、歌手の河島英五に憧れていました。彼には二度会ったことがあります。最初は比叡山西塔で、もう一度は名古屋公会堂で開催された「一隅を照らす運動推進大会」で一時間のコンサートをしていただいた時です。
 コンサートでは、その日のために用意した新曲を披露してくれました。おばあさんからの手紙を題材にした歌でしたが、残念ながらCDにはなっていません。
 人には、どうにもならないことがあります。そのことに憤慨し、地団駄ふんでいるような彼の歌が好きでした。
 ケニアの首都ナイロビの酒場のジュークボックスには、代表作である「酒と泪と男と女」のレコードがあったといいます。本人が、そのバーに立ち寄った際、「俺は日本の歌手だ」と言っても誰も信じてくれなかったので、仕方なく自分のレコードを置いていったのだと伝えられています。いかにも、自然児であり、時に求道者のように感じられた河島らしい、この話が、私は好きです。
 河島は四十八歳で亡くなりました。私は今も彼の「時代おくれ」という歌を歌うことがあります。
 「あれこれ仕事もあるくせに/自分のことは後にする/ねたまぬように/あせらぬように/飾った世界に流されず/好きな誰かを思いつづける/時代おくれの男になりたい」
 誰もが時代に遅れまいとした時代がありました。飾った世界に憧れて、嫉み、焦ることに何の疑問も持たない時代がありました。
 今「自分のことは後にする」という言葉が、やけに新鮮に感じられ、私も時代遅れの男になりたいと思っています。時代遅れの男とは、一隅を照らす男のことかも知れませんから。

仏教の散歩道

真珠の涙を流す

 不景気なもので、首切りに遭う心配をして、不安に怯えている人がいます。あるいはわが子の死に遭遇して、悲しみに打ちひしがれている人がいます。どうすればいいのでしょうか……? そう尋ねられることがしばしばあります。
 この問いに対して仏教の立場から答えるとすれば、
 あきらめなさい
 としか答えようがありません。そして、そのようなわたしの答えを聞いた人は、たいていが、
 〈なんだ そんな言い方はないだろう。もっと親切に答えろ!〉
 といった表情をされます。そういった反応が返ってくるのは、人々は、仏教が不安を克服し、悲しみを軽減させる方法を教えてくれると思っているからです。しかしそれは、仏教に対する筋違いの期待です。
 考えてみてください。会社において、首を切られない方法がありますか? そんな方法があれば、サラリーマンはとっくの昔にそれを実践していますよ。悲しみを軽減する方法があれば、誰もがその方法を使います。大昔から今日まで、多くの人々が愛する者との離別を歎き悲しんできました。悲しみを軽減する方法がないからこそ、人々は悲しみの涙を流したのです。
 だから、不安になったとき、悲しみに遭遇したとき、わたしたちはただあきらめるよりほかありません。ただし、この場合の「あきらめ」は、断念することではなしに、不安を克服し、悲しみを軽減する方法のないことをしっかりと明らめることです。
 不安の克服は不可能であり、悲しみを軽減できないことを知って、わたしたちは不安に怯え、悲しみの涙を流せばいいのです。それが仏教の教えです。
 江戸中期の禅僧に白隠禅師(一六八五一七六八)がいます。その白隠禅師の弟子に阿察(おさつ)という名の女性がいました。彼女は在家の身ながら、相当奥深く禅を学んだのです。
 ところが、この阿察婆さんは、孫娘の死に直面して、棺桶の前でわんわん泣いています。あまりにも激しい悲歎ぶりに、周りの人々が忠告しました。
 「阿察さん、あんたは白隠禅師に禅を習ったんだろう。そんなに泣くなんて、禅の教えが役に立っていないではないか」
 「やかましい! わたしの涙は尋常の涙ではないんだ。わたしは真珠の涙を流しているのだ」
 それが阿察の返答でした。
 禅というものは、悲しいときに、悲しまずにいられる精神力を養うものではありません。悲しいときにしっかりと悲しみ、そして真珠の涙を流せる。それを教えているのが禅であり、仏教です。
 不安なときは不安に怯えればいい。わたしはそう考えています。

カット・酒谷 加奈

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