天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第75号

国清講寺で開宗1200年慶讃大法会円成を奉告
-半田座主猊下を名誉団長に天台宗訪中団-

 天台宗では昨年「天台宗開宗千二百年慶讃大法会」が円成したことをうけて、報恩奉告のため半田孝淳天台座主猊下を名誉団長とする六十五名の訪中団を派遣した。訪中団一行は、高祖天台大師・宗祖伝教大師ゆかりの天台山国清講寺等を参拝、中国側僧侶と共に報恩の法要を厳修した。訪中は当初、昨年五月に予定されていたが、四川大地震のため延期されていたものである。

 半田孝淳座主猊下は、十七日午前中に日本を出発、同日午後、北京に到着。到着後、夕刻に前中国仏教協会会長・趙樸初師の夫人を訪問、続いて中国仏教協会を訪問した。
 故趙会長は戦後途絶えていた日本天台宗と中国仏教協会の関係回復と交流再開に尽力した功労者である。中国仏教協会では、一誠会長と会談。半田座主猊下は「趙会長は、一九九三年に中国仏教協会成立四十周年を記念して訪日され、中韓日三国仏教を『黄金の絆』とする構想を発表されたが、それは一九九六年の祖師讃仰大法会・天台大師一千四百年大遠忌のおり、明暘中国仏教協会副会長、大韓佛教天台宗金道勇宗正大禅師が出席されて、比叡山での三国合同法要を行えたことで結実した」と挨拶した。
 また翌十八日には、中国国家宗教局並びに中日友好協会を表敬訪問。
 国家宗教局では、葉小文国家宗教局長(中華宗教文化交流協会会長)が半田座主猊下を出迎え、同局長主催の晩餐会が催された。葉局長は「半田座主猊下の心のこもったスピーチに大変感激した。訪中団をお迎えすることを誇りに思う」と述べた。更に、半田座主猊下は、二十日には高祖天台大師の御廟である真覚寺を参拝され、即身成仏されて埋葬された智者大師肉身塔の前に額づかれた。
 このあと黄継満天台県人民政府県長と共に天台山で会見式に臨み、続いて可明天台山国清講寺住持と再会を果たした。
 二十一日には、天台山国清講寺で、開宗千二百年慶讃大法会の円成奉告にあわせ世界平和・日中友好を祈念する日本と中国の僧侶による法要が厳修された。導師は中国側が可明住持、日本側が半田座主猊下であった。
 続いて行われた記念碑の除幕式では、「天台宗永永流傳」と碑文を揮毫した半田座主猊下が「仏教は滅びることはない。永久不滅であるという意味を込め、また中日両国の天台宗、仏教の友好交流も永久不滅であるという祈りを込めて揮毫した」と述べられた。寧波の天童寺では釈誠信方丈の、また上海では玉佛寺で覚醒住職の出迎えを受けられたばかりではなく、それぞれの寺院では数十人の僧侶が参道に整列して半田座主猊下を出迎えた。期間中訪中団は中国側の熱烈歓迎を受け、二十三日に帰国した。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「今日から私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来て下さい。私の家に来て下さい。待っています」

山本慈昭 前長岳寺住職

 故山本慈昭師は長野県下伊那郡阿智村の天台宗僧侶で「残留孤児の父」と呼ばれた人です。山本師が、満州へ赴くのは、終戦間近の昭和二十年五月のことでした。開拓団から「子ども達の教師に」と請われて断りきれず、夫人と幼い娘を伴っての移住でした。
 終戦直前の八月九日に、満州にソビエト軍が侵攻し、その地獄のような状況に、一家で自決したり、子どもだけでも助かるようにと現地の中国人に預けたりして人々は逃げまどいました。これが中国残留日本人孤児の始まりです。
 山本師は捕虜になりシベリアに送られます。帰国後、妻も娘も、収容所で死亡したと知らされます。しかし帰国後二十年が経過して、死んだはずの娘は、中国人に預けられて生きているらしいと聞かされます。
 日中国交が回復すると、山本師は外務省などを訪れ、調査を依頼しますが、中国は文化大革命が始まっており、日本政府が孤児を探すことなど到底できない状態でした。
 何度も訴え続ける山本師を、霞ヶ関は「満州帰りの変人坊主」と呼んだといいます。けれども、次第に、肉親に残留孤児を持つ人々が活動に参加してきます。そして、ついに日中の当局に理解者が出て、昭和五十六年に初めて、残留孤児が来日し本格的な調査が始まりました。終戦後、三十六年目のことです。
 来日しても、ついに肉親に会うことができなかった二十三人の孤児を抱きしめて、山本師は冒頭の言葉を告げるのです。
 そして、この年に山本師は、実の娘さんと中国で再会を果たします。日本から帰った残留孤児たちが山本師への恩返しをせねばと、探してくれたのでした。その後も山本師の調査は続きました。「私にとり、すべての孤児が、自分の娘のようなものなのです。孤児全員が幸せになるまで私の戦後は終わらない」。山本さんが亡くなったのは、平成二年のこと。天台宗にこのような「一隅を照らす」僧侶がおられたことを誇りに思わずにはいられません。

鬼手仏心

沖縄戦跡慰霊行脚  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 先頃、久々に沖縄を訪れた。沖縄は快晴で、すでに夏本番のような那覇空港に降り立った。
 今回の沖縄訪問は、沖縄戦跡慰霊行脚実行委員会の招きによるもので、八回目を数える慰霊行脚の行事に参加するためである。
 今回は那覇市内を守礼門から泊港まで歩き、そこから渡嘉敷島へ船で渡り、白玉の塔と赤間山山頂にある、集団自決の慰霊碑を参拝するという行脚である。
 翌朝、八時に先ず首里城守礼門に集合した一行は、比叡山回峰行者・光永覚道師のお導師によって慰霊読経の後、行脚を開始。およそ一時間ほどで、泊港に到着し、十時発のフェリーけらまで渡嘉敷島へ渡る。
 本島を離れるにしたがって、海の色は黒に近い濃紺と変わり、船の舳先をかすめるようにトビウオがとんで行く。
 渡嘉敷島は慶良間諸島のひとつで、海水の透明度が高く、絶好のダイビング・スポットとして有名な所。シーズンには多くの観光客が訪れると言うが、今はまだシーズン前ということで、のどかな佇まいである。初夏の太陽にきらめく海に慶良間の島々が、見え隠れする真に風光明媚なところである。
 なぜこんな美しい海や島々を背景に、戦(いくさ)をしなければならなかったのか。その中でどうして、集団自決という悲劇が起こったのか。年寄り・子ども・女性など、何の脅威もない人々が死なねばならぬ理由は何だったのか。何がそこまで彼等を追い詰めたのか。
 きらめく海を見ながら、戦争の無惨さをつくづくと感じ、二度と悲劇を繰り返してはならないと思いながら島を離れた。

仏教の散歩道

世界はすべて「仏の庭」

 天下人(てんかびと)と呼ばれた豊臣秀吉(一五三六九八)は、相当にスケールの大きな人物だったようです。
 あるとき、秀吉が可愛がっていた小鳥を、家来が不注意で逃してしまいました。家来は顔面蒼白になり、切腹を覚悟して報告し、謝罪しました。すると秀吉は「あははは」と笑いながら、
 「八十余州、広しといえどもみなわが庭である。切腹などせずともよい」
 と鷹揚に言ったそうです。  八十余州というのは日本全国です。その日本全国が自分の庭だから、小鳥は籠から外に出ても、どうせ自分の庭で遊んでいるのだ。心配するな。秀吉はそう言っているのです。
 その度量の大きさには感心します。
 ところで、仏教においては、われわれの住むこの世界を、
  ご縁の世界
 と見ています。みんなお互いに関係し合って生きているのです。
 この「ご縁の世界」においては、誰かが得をすれば誰かが損をします。
 誰かが大学に合格すれば、確実に誰かが不合格になります。もっとも、受験者が定員より少ないと、全員が合格できますが……。勝ち組がいれば負け組がいます。それが「ご縁の世界」のあり方です。
 その意味では、この世はちょっと住みにくいですね。みんながみんな得をすることができないのですから。
 そこで、われわれは見方を変えて、この世の中を、
  仏の庭
 と考えてみたらどうでしょうか。そうすると、だいぶ気が楽になるように思います。
 そうです、あなたが飼っていた小鳥が逃げ出しても、小鳥がいなくなったわけではありません。小鳥は仏の庭で遊んでいるのです。そしてあなたも仏の子なんだから、仏の庭はあなたの父親の庭です。
 そう考えると、小鳥が逃げ出しても、あなたはあまり悩む必要はありません。
 あなたがかりに大学受験に失敗して不合格になっても、あなたの代わりに誰かが入学してくれました。その人があなたの代わりにしっかり勉強してくれるでしょう。
 あなたは来年に入学すればいいのです。来年がだめなら、再来年でもいい。あなたはゆったりと勉強すればいいのです。
 わたしたちはみんな仏の子で、仏の庭で遊んでいます。あなたが損をしても、誰かが得をしています。あなたは、その得をした人にちょっと布施してあげたと思えばいい。
 また、誰かがあなたのために何かを布施してくれています。そう考えることができたならば、あなたは損をしてもあまりじくじく悩まなくてもすみます。
 みんな仏の子なんだと、お互いに布施の心で生きたほうがよいと思います。

カット・酒谷 加奈

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