天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第70号

海外開教35周年記念慶讃法要を奉修

 天台宗海外開教三十五周年を記念して去る十一月二十六日、米国ハワイ州ホノルルのハワイ別院(荒了寛住職)において「開教三十五周年記念慶讃法要」が、半田孝淳天台座主猊下を大導師に奉修された。また、同日は、ハワイ一隅大会も開催され、日本からの参拝団と地元ハワイの檀信徒、住民多数の参加をみ、互いに節目の年を祝いあった。

 天台宗が先の大戦後、再び海外での開教に乗り出してから、三十五周年という節目の年を迎えた。最初の開教地は米国ハワイ州ホノルルで、この地は戦前にも天台宗の寺院が存在していたというゆかりの地である。
 昭和四十八年十一月二十五日、菅原栄海天台座主猊下のご親修により天台宗ハワイ別院の開院式が行われ、これが海外開教の第一歩となったのである。
 以来、ハワイでは、別院に続いてパロロ観音寺、マノア高岩寺等、次々と天台の寺院が建立され、その後天台の教線は、米国本土、南米ブラジル、更にはヨーロッパ、インドへと弘まっている。
 そして開教三十五周年を迎え、その一歩を印したハワイ別院において記念法要が厳修されたのである。日本からの記念法要参拝団には、半田座主猊下始め、濱中光礼天台宗宗務総長、武覚超延暦寺執行、東伏見慈晃ハワイ一隅会名誉総裁、杉谷義純海外伝道事業団理事長、山田俊和同副理事長、各教区の僧侶・檀信徒ら多数が参加。
 式典は二十六日午前、半田座主猊下の大導師による記念法要の後、杉谷理事長の挨拶、半田座主猊下のお言葉、濱中天台宗宗務総長並びに武延暦寺執行の祝辞があり、続いて、これまでのハワイ別院発展に尽くした方々の表彰などが行われた。
午後からはハワイ一隅大会が開催され、作家で僧侶である玄侑宗久師が「一隅を照らす-地蔵の心 観音の力-」と題して記念講演を行った。
 二十一世紀を過ぎ、ますます混迷を深める世界の状況を前に、「忘己利他」の精神を基とする天台の教え・宗祖大師の法華一乗の精神を弘める必要性が一層求められている。この三十五周年の節目を新たな出発点として海外開教の更なる飛躍が期待されるところである。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

初あかりそのまま命あかりかな

能村登四郎

 一休禅師は「元旦は冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」と言って、お正月に髑髏(どくろ)を持ち歩いたりしました。
 しかし、やはり我々凡人は、素直に「おめでとうございます」といって新しい年を喜び合う方がありがたいようです。
 さて、お正月になると家の掃除も行き届いていて、普段と違って部屋も輝いているように見えます。
 お屠蘇をいただき、家族とお雑煮を味わうと、また、新しい一年が始まるのだという感慨がわいてきます。仏壇に、今年初めて灯されたあかりを見ながら、生かされているありがたさを思います。
 今年も、一日一日を大事にしていこうという気持ちになります。
 日本を代表する作曲家で箏曲家だった宮城道雄さんが、お正月について「正月、殊に除夜の鐘の音を聴くのがこの上もなく好きで、鐘の音を聴いているうちに何だか自分の心が改まったような気持ちになり、そして自分の過去を考えて、もう少し勉強したいと思う」と書いています。多くの人がそんな気持ちになると思います。
 そのあと「しかし年が過ぎてみると、それ程の仕事もしていないのである」と続くのは、これまた多くの人が思うことで、宮城さんほどの天才でもそうだったのかと、いささか安心いたします。
 正月に決意するほどの仕事ができなくても、一年が無事に過ぎて、また新しい年がやってくる、その当たり前のことが、年を重ねる毎にありがたく思えてきます。
 北原白秋は「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド」と歌いました。
 当たり前のことですが、当たり前を支えているのは、人智を越えた大きな力です。その力は、目に見えませんから「お陰」というのではないでしょうか。お陰様に守られて、今年もお正月を迎えられたように思います。

鬼手仏心

世界の人口は  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 明けましておめでとうございます。平成二十一年が皆様にとって幸多い年になりますようご祈念申し上げます。
 さて、昨年末のニュースで、世界人口が六十七億人を超えたと伝えていました。
 一八〇〇年が十億人、一九〇〇年が二十億人、一九六〇年が三十億人でしたが、そこから一気に六十七億人まで増えたのです。このままでいくと二〇五〇年には、およそ九十二億人という予想が出ています。
 人口最多は中国で十三億人、次がインドで十一億人、第三位がアメリカで三億人ですから、上位二カ国が抜群に多いことになります。
 人口が多くなることを問題にする訳ではありません。しかし当然、なにやかやと窮屈になることは目に見えています。例えば食糧はどうなるのでしょうか。水はどうなるのでしょうか。エネルギーは、自然環境は一体どうなるのでしょうか。
 足らなくなった資源を巡って獲得競争が激化し、流血の惨事が頻発するとしたら、そんな愚かなシナリオしか書けない人類に希望はありません。
 今こそ、政治も経済も教育も宗教も全ての力を結集し、全ての叡智を集めて、この事態に最優先に取り組む時ではないでしょうか。
 足らざるを補い合い、分かち合って生きる知恵を生み出さなくてはならない時であり、戦争などにうつつをぬかしている暇は無いのです。
 また、この事は誰かが解決してくれるという問題ではありません。私たち一人ひとりが明確に問題意識をもって従来の生き方を見直し、行動しなければ解決できません。未来を託す子どもたちのために、私たちが今果たさなくてはならない責任だと思います。
 年頭に当たり、これを今年の自分自身の課題とすることに決めました。

仏教の散歩道

自分が変わる

 仏教講演会のあとの聴衆との質疑応答ですが、あれは答えるのにちょっとした「技術」が必要です。わたしは、できれば質問者が自分のものの見方を変えられるようにと願って、質問に答えるようにしています。
 たとえば、あるとき、こんな質問がありました。二十一歳になる娘が、自分の部屋を散らかし放しにしている。いくら注意しても、言うことを聞かない。どうすればいいか…? 仏教とはあまり関係のない質問です。わたしは一瞬、「部屋を散らかすかどうか、そんなこと生死の一大事ではありませんよ。どうだっていいじゃないですか」と答えようかと思いました。
 でも、そんなふうに言われても、彼女の悩みは解消しません。そこでわたしは、こう答えました。
 「あのね、韓国では、お嫁さんが家の中をきれいに掃除してぴかぴかに磨き上げると、お姑さんが、
 そんなことをすると、福の神が逃げ出してしまう
 と叱るそうですよ。あまりにきれいな所だと、福の神は居心地が悪いようです。日本でも、水清ければ魚棲まずと言いますよね。あなたの娘さんは、福の神を招いているのです。娘さんが部屋をきれいにすれば叱ってもいいが、散らかしているのだから、褒めてあげるべきでしょう」
 聴衆は大笑いでした。質問した女性は、ちょっとびっくりした顔をしています。わたしは彼女に言いました。
 「変な答だと思ったでしょう…? ちょっと肩透かしを食った気がするでしょう?」
 「ええ」
 「いえね、そういう考え方もあるんですよ。きれいにすべきだといった観念に、あまりこだわらないほうがいいですよ」
 聴衆の笑いに誘われたのでしょう。彼女もにこりと笑いました。
 彼女は、部屋を散らかし放しにするのは良くないといった価値観を持ち、それを娘に強制しようとしています。だが、もしも娘さんが病的な潔癖症になれば、母親はどう考えるでしょうか。奇妙な不潔感に襲われて、五分毎に手を洗わないと落ち着けない人もいるのです。そうなればきっと、「清潔なんて気にしないでほしい」と思うでしょう。
 要するに、「散らかしにしたままではいけない」とか、「清潔にせねばならない」といったようなことは、どうだっていいことです。「生死の一大事」ではありません。その瑣末的なことにこだわり、自分の考えを相手に押し付けようとし、それを相手から拒否されたもので、悩み苦しんでいるのです。馬鹿らしいと思いませんか。
 われわれは、相手を変えようとしますが、なかなか相手が変わらないのであれば、自分が変わればいい。そうすれば悩みは軽減されます。そのことをわたしは言いたかったのです。

カット・酒谷 加奈

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