天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第35号

天台宗 開宗1200年の御祥当を迎える

伝教大師のみ教えを未来に

 一月二十六日に、天台宗は宗祖伝教大師が立教されてより千二百年の祥当を迎えました。ご勝縁に逢いえた喜びをかみしめているところでありますが、この記念すべき年を、ただいたずらに過ごしてはならないと存じます。
 守護国界章において宗祖大師は「一切の有情(うじょう)、皆(みな)悉(ことごとく)成仏し、一として成(じょう)ぜざるはなし」と述べられています。法華経からのお言葉でありますが、すべてのものは仏となる、皆と共にその道を歩みたいというのが宗祖大師の願いでありました。
 現在の日本社会は非常に病んでおります。開宗千二百年にあたり私たちは、宗祖大師の示されたようにすべてのものが仏となるように精進し、み教えを守り、そのみ心を大事にすることこそが、今の日本を再生させる道であります。
 宗祖大師の開かれた比叡山では、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など現在の日本仏教を支える多くの宗派の祖師方が学ばれました。一九八一年に来日されたローマ法王ヨハネ・パウロ二世聖下が、日本の代表的指導者を前に伝教大師のことを「日本仏教の古き指導者」と呼ばれたゆえんであります。仮に宗祖大師が法華一乗のご精神をもって天台宗を開かれなければ、今の日本仏教は全く違っていたでありましょう。 
 「一隅を照らす」「己を忘れて他を利する」等々、宗祖大師が我々に示された数多くの珠玉の指針がございます。宗祖大師は「わが志を述べよ」とのご遺戒を残されておられます。私たちは開宗千二百年にあたり宗祖大師のお志を伝え続けてゆく固い決意を深く心に刻まなくてはなりません。私たちは、宗祖のみ教えを実践し、弘めることが、何よりの開宗千二百年の報恩行になると存じます。そして、そのことが日本を浄仏国土にする第一歩となり、世界平和への確かな道であると信じます。
 文=宗務総長 濱中 光礼

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

怨(うらみ)を以(もっ)て怨に報(ほう)ぜば
怨止(や)まず、
徳を以て怨に報ぜば
怨即(すなわ)ち尽(つ)く。

伝教大師・伝述一心戒文

 第二次世界大戦中に、ナチスのユダヤ人収容所で、自ら他の囚人の身代わりになると申し出て飢餓刑に服し、亡くなったポーランド人神父がいます。
 そのマクシミリアノ・コルベ神父の名前はカトリック界では知らないものがいないといわれるほど有名です。
 コルベ神父は「憎しみからは何も生れない。愛だけが創造する」という言葉を残しました。
 伝教大師の言葉と、コルベ神父の言葉を比べてみてください。千二百年前に伝教大師が述べられた言葉と、六十年前にカトリック神父が残したものは、ほとんど同じだといっていいと思います。かといって、時代背景を考えれば、当時コルベ神父が伝教大師の教えを知っていたとは思えません。
 偉大な宗教者には、時代や国や宗派を超えて共通するものがあります。それは「真理」です。
 残念ながら、今、世界ではテロの嵐が吹き荒れ、民族紛争では、数十万人、数百万人が虐殺されたという報道がなされています。彼等の心の奥底に潜むものは憎しみです。
 人間は、心の持ちようによって鬼(悪魔)にもなれれば、仏(神)にもなれます。その境界を分けるものを千二百年前に伝教大師はお示しになっています。

鬼手仏心

集団登校  天台宗出版室長 小林 祖承

 
 白い息を吐きながら、小学生たちが集団登校してゆく。
 私たちの時代も、集団登校はあったが、それは高学年の者が、低学年の世話をするという意味合いが強かった。現在は、保護者がつきそい、危険から子どもの命を護る形である。どこに魔が潜んでいるかわからないからだ。
 かつては大人が「風邪をひくなよ」とか「先生のいうことをよく聞けよ」というように気軽に声をかける風景がよく見られたが、今は、見知らぬ人が、そんなことをすれば、即座に「変質犯罪者」扱いされかねない雰囲気だ。
 重苦しい時代だと思うが、これだけ弱者を狙った残虐な犯罪が多発すれば仕方もないのかもしれない。が、しかし我々の社会を覆いはじめている異常さは、犯罪者の個人的資質よりも、日本全体の根腐れを感じさせる。
かつて日本人には、恥や矜恃(きょうじ)という譲れぬ規範があった。それが、エコノミックアニマルと酷評された頃から崩れ始め、イジメに至り、バブルの後、勝ち組負け組という身も世もない選別社会を経て、その歪みが今日の事態を引き起こしているような気がしてならない。
 自分の欲望を満たすために、子どもを誘拐して殺すなどということは冷血の限りである。が、自己の欲望を満たすために、欠陥住宅を造る、あるいは、振り込み詐欺を働く、また、自分の子どもを虐待するなどの「根腐れ」は類挙に暇がない。
 お釈迦様の説かれた五戒をことある毎に訴えてゆきたい。その一番最初は「汝、殺してはならない」であり、二番目は「汝、盗んではならない」とある。

仏教の散歩道

苦海に生きる力

 中国、唐代の禅僧に、趙州(ちょうしゅう)和尚(七七八-八九七)がいます。百二十歳まで生きた人です。そして、中国の禅僧の中で最高峰に位置する人物とされています。
 あるとき、一人の老婆がやって来て、趙州に質問しました。
 「仏教では、女性は障(さわり)が重いとされています。だとすれば、女性であるわたしが救われるには、どうすればいいのですか……」
 ここには女性差別の発想がありますが、昔の話だからしばらく目を瞑っておきましょう。趙州は老婆にこう答えました。
 「願わくば、いっさいの人が天界に生まれるように、願わくば、婆々(ばば)の永に苦海に沈まんことを(願一切人生天、願婆婆永沈苦海)」
 これはちょっと酷(ひど)い言葉ですね。禅僧ともあろう人が、こんな言葉を言ってよいのでしょうか。そう思いたくなりますよね。
 だが、じつはこれが慈悲の言葉なんです。
 考えてみてください。趙州はほかにどんな言葉を言うことができたでしょうか。老婆自身が、自分の救いのないことを自覚しています。昔の人々は、女性が成仏できないことを知っていたのです(もっとも、男性だって、まず成仏は不可能です)。だから、老婆は自分が地獄に落ちることを知っている。その老婆に、「いや、あんた、努力をすれば救われるよ」と説けば、それは気休めの言葉でしかありません。気休めというより、もっと性(たち)の悪い言葉です。それはインチキ宗教が説く言葉でしかないのです。そんな言葉で、老婆は救われるでしょうか。救われませんよね。救われないどころか、そんな言葉を聞けば、きっと老婆は怒りだすでしょう。
 だから趙州は、老婆に
 - あきらめよ!-
と教えたのです。救いをあきらめて、地獄に落ちて(苦海に沈んで)、そこでしっかりと生きればよい。苦しみながら生きるのです。そういう生き方もすばらしい。気楽に酔生夢死の生き方、極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ)の生き方をするばかりが人生ではないのです。苦しみに呻きつつ生きる生き方も、あんがいおもしろいかもしれません。要は覚悟の問題です。趙州は老婆に、その覚悟を持て、と教えたのです。わたしはそう思います。
 世の中には、仏教を学べば幸せになると思っている人がいます。わたしに言わせれば、それは大まちがいです。
 この世の中、それほど公平・平等ではありません。いくら努力しても、うだつが上がらない人は大勢います。ある教団に入信すれば、たちまち幸せになれる-そんな簡単なものではありません。
 そうではなくて、仏教を学べば、苦しみを苦しみとしてしっかり耐えられる力が得られるのです。悲しみを悲しみとして受け容れる力が得られる。仏教はその力を教えてくれているのです。

カット・伊藤 梓

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