天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第272号

第39回「世界宗教者平和の祈りの集い」
レオ14世聖下が平和への連帯を呼びかけ
イタリア・ローマ

 諸宗教の指導者らが一堂に会し対話と祈りで平和を目指す第39回「世界宗教者平和の祈りの集い」が10月26日から28日までイタリア・ローマで開かれた。

 天台宗からは天台座主代理の杉谷義純宗機顧問(妙法院門跡門主)を名誉団長に8名が参加。第2バチカン公会議で非キリスト教宗教との関係に関する公文書『ノストラ・エターテ』が発表されてから60周年の節目と重なり、最終日にはローマ教皇レオ14 世聖下が演説し平和への連帯を呼びかけた。 (3面に関連記事・次号詳報) 

 1986年に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世聖下の呼びかけでイタリアのアッシジで開催されてから毎年ヨーロッパ各都市で開かれている集会。ローマに本部を置くカトリックの信徒団体「聖エジディオ共同体」が主催している。
   
 今年は「平和に挑む」をテーマに掲げ、26日(現地時間)の開会式にはベルギーのマチルド王妃陛下、イタリアのマッタレッラ大統領ら要人、そして広島原爆の被爆者である近藤紘子さんらが出席。キリスト教、イスラーム、仏教の世界三大宗教はじめ諸宗教の指導者や信徒ら約4千名が出席した。
 
 創設者の一人であるアンドレア・リッカルディ教授は戦争や紛争などのあらゆる暴力を非難し、「戦争は麻薬と同じで社会と民主主義を引き裂いている。

 対話と交渉する時代に向かうためには祈りを捧げなければならない。対話を始めた瞬間から他者より自身を発見できる。対話が再び社会の中心に戻るべきだ」と訴え、会期中の対話と友好を促した。

 またマチルド王妃は「宗教は平和へ歩むべき道を示している。平和の種を蒔くには、未来の主体となる若者に受け継ぎ、女性の賢さに耳を傾けるべきだろう。より良き世界を構築するには、宗教を信じる人びとの勇気ある行動が必要だ」と述べた。(写真)

 そして近藤さんも登壇し「憎むべきは人ではなく戦争だ」と訴えた。今年の比叡山宗教サミット「世界平和祈りの集い」でも、日本被団協の田中熙巳代表委員が講演しており、東西の集いで、世界に向けて改めて核兵器の廃絶が発信されたといえる。

 翌27日からはローマ市内各所22会場で分化会があり、そのうちの一つ『普遍的友愛と諸宗教対話―ノストラ・エターテから60年を経て』で杉谷名誉団長が登壇。「対話こそすべての扉を開く」と題して発言し、アッシジの精神が比叡山に受け継がれ諸宗教による平和の祈りの集いが開かれている経緯を紹介した。

 その上で「宗教の果たすべき役割は、相手を傷つけないように努力することであり、相手の立場を理解すること。対話こそ自分を高め、相手の中に新しい発見があることを忘れてはならない」と提言すると、賛同を示す拍手で包まれた。  

 最終日には、杉谷名誉団長導師のもと日本仏教代表者による世界平和祈願法要を奉修。戸松義晴WCRP日本委員会理事長、峯岸正典大本山永平寺国際部部長、庭野統弘庭野平和財団理事長、宮本泰克妙智會教団代表役員らが出仕。祈願文が奉読され、ローマ市民らも随喜して、共に世界平和を祈った。

 続く閉会式は、ローマ教皇レオ14世聖下が臨席し、「世界は平和を渇望している。権力の乱用、武力の誇示、正義への無関心に終止符を打つ、真の永続的な和解の時代が必要だ。祈りが人びとの歴史を変えることが出来ると信じている」と述べ、連帯を呼びかけた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

思ひせく心のうちの滝なれや

 落つとは見れど 音の聞こえぬ

 三条の町(『古今和歌集』より)

 「思いを堰(せ)き止めている心のうちの滝だからだろうか、水が落ちているように見えるけれども音が聞こえないよ」

 詞書によると、文徳天皇と作者が屏風の滝の絵を観賞している際に、これを題材にして歌を詠むように言われて詠んだとのことで、屏風に描かれている滝はもちろん音が聞こえません。

 それを「心のうちの滝」と表現することで、相手の要望に応えつつ、心の中でせめぎ合っている思いの一端を伝えられたのではないでしょうか。

 三条の町は「悲運の皇子」として知られる惟喬親王の母親ですから、相当な思いを抱えて過ごしていたことは想像に難くありません。具体的な感情を詠っているのではなく、言えずにいる思いがあることのみを伝えるところに奥ゆかしさが感じられます。

 私たちは日々、誰かに手を貸し誰かの手を借りて、人に囲まれて過ごしています。その中で、意見の食い違いが生じてきますし、予想外の対応をされることもあるでしょう。

 そんな時はできる限り言葉で軌道修正を図りますが、これがなんとも難しいところです。なぜなら、自分が当たり前と思っている価値観を、相手が持っていないことが往々にしてあるからです。こちらの意図が通じないとき、つい感情的になったり攻撃的な言葉を選んだりしてないでしょうか。

 言葉に関する仏教の教えで、八正道のひとつである「正語(しょうご)」というものがあります。文字の通り正しい言語を使うことを指しますが、具体的には嘘をつかず(不妄(ふもう)語)、中身のないふざけたことを言わず(不綺(ふき)語)、悪口を言わず(不悪口(ふあっく))、仲違いさせるような事を言わない(不両舌(ふりょうぜつ))ことを実践すべきと説かれています。おっしゃる通りと深くうなずくばかりですが、いざ実践に移すとなると何も言葉を発せなくなりそうです。

 絵の滝は目には見えても音は聞こえませんが、相手に発する言葉は目に見えず音を聞いて判断する不確かなものです。不確かなものだからこそより一層、丁寧に扱うべきなのでしょう。

鬼手仏心

自己満足のプチ修行

 残暑厳しき8月末日、宗務庁内側の漆喰壁の補修を行いました。かねてより気に掛けていた箇所で、土壁が露出し、正面玄関からも目に付く頗(すこぶ)るみっともない状態でした。来庁される方々が訪れる度に心苦しい思いをしていました。

 先日、戸津説法師より法華経の教えを拝聴し「身近な所から人を幸せにする」というお言葉を頂きました。上手な布教や諸堂の普請(ふしん)も尊い事ながら、先ずは目先の事から環境を整えたり、人を和ませる実践も大切だと思います。  

 また東京で随身した学生時代、師より常に頂きました教えは、「誰の為ということなく、ただ黙々と働く」師の姿です。庭を掃く音で、朝4時に目が覚めて雨戸を開けようとすると、師は「6時までは寝てなさい」と言葉をかけられました。住職が率先して掃除をし、身をもって小僧に教えて下さいました。この年になって漸く その心中が分かってきたような気がします。

 補修の材料は、ネット通販より調達しました。いつも思い付きばかりですが、日頃より頼りになる職員2名にお手伝いをお願いしました。ヒビ割れてしまったり、平らに塗れないなど試行錯誤を続け何とか作業が終わりました。

 法華経に説かれる「人を思いやる」精神は、決して大きな理想の中のみにあるのでなく、小さな実践の積み重ねの中にも息づくものだと思います。人を迎える場を清らかにし、来庁者に安心を与える事に繋がります。  

 今日もまた修行が出来たと、お腹をスッキリさせるりんご酢を飲みながら自己満足に浸っています。

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