天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第263号

第259世 天台座主に藤光賢猊下 2月1日にご上任

大樹座主猊下ご譲職

天台宗は1月10日、第258世天台座主探題大僧正大樹孝啓猊下(100)がご高齢などを理由にご譲職(辞任)されることを発表した。

 これにより、宗憲及び宗制並びに天台座主規程に基づき次座探題の藤光賢大僧正(93)が2月1日付けで第259世天台座主にご上任されることが決まった。

 同日、滋賀院門跡で上任式が執り行われ、大樹座主猊下は前天台座主として遇されることになった。

 大樹座主猊下は、昨夏ごろより体調不良を覚えられてご静養される日も多く、ご高齢などを理由に昨年末に天台宗と延暦寺の両役員にご譲職の意思を伝えられていた。

 これにより、天台宗宗憲第十二条及び天台宗宗制第四条、天台座主規程第四条の規定から、次座探題の藤光賢大僧正が第259世天台座主にご上任されることとなった。
 ご譲職は平成19年の渡邊惠進第255世座主猊下以来となる。  

 大樹天台座主猊下は、森川宏映天台座主猊下のご遷化を受け、令和3年11月22日に最高齢となる97歳でご上任され、3年2カ月にわたり天台宗の師表として宗徒をご教導された。

 令和4年8月の比叡山宗教サミット35周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」では、激しい雷雨の中、怯まずに力強いお声で「神仏からの激励を賜った」と挨拶を止めず参加者を鼓舞するお姿は、会場の気持ちを一つにした。後に「記憶に残る比叡山宗教サミットになった」と参加者から讃えられ、今も語り継がれている。

 また平成23年から11年にわたる祖師先徳鑽仰大法会を率先垂範された。令和5年3月31日に奉修の総結願奉告法要では大導師を務められた。

 第259世天台座主猊下にご上任になった藤光賢座主猊下は、昭和7年1月生まれの長崎県出身。天台宗宗議会議長、宗務総長、宗機顧問などを歴任され、京都五箇室門跡のひとつ曼殊院門跡門主と九州西教区金乘院の住職を勤められた。  
 昭和生まれ初の座主猊下となられる。


-伝燈相承式は 6月10日-

 藤座主猊下は、滋賀院門跡での上任式後、伝教大師祖廟である浄土院へ上任のご報告をされた。

 また現在は未定だが、比叡山全山を巡拝し諸仏諸菩薩諸天善神に座主上任をご報告される御拝堂式に臨まれる。

 伝燈相承式は6月10日午前10時半より、比叡山延暦寺総本堂根本中堂において古式に則り執り行われる予定。歴代天台座主の相承譜に、第25 9世座主上任の署名をされる。


謹告

 本号は『上任式』特集号とさせていただきました。
 作成日程の関係上お手元に届くのが遅れましたことをお詫び申し上ます。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

未来とは、今である。

マーガレット・ミード

 アメリカの文化人類学者のマーガレット・ミードの言葉です。

 私たち誰しも一度は頭に浮かべる言葉ではないでしょうか。あれやこれやと未来に起こるであろうことを想像して、恐れたり、都合の良いように筋書きを書いたりと次から次へと空想が浮かんできて、悩みの尽きないことがあります。反対に済んでしまったことに、ああすべきであった、こうすべきであった、と反省やら悔恨やらで打ちひしがれることもあります。

 しかし、これから起こるであろうことや過ぎ去ってしまったことをいくら思い悩んだところで、仕方がありません。どちらにしろ、結局のところ想像の域を出ないですし、どうしようもないことです。

 ならば、どうすべきでしょうか。つまるところは、今すべきことをするしかないという結論に達します。「今を生きる」ことは、その時にできうる精一杯の行動をとることでしょうか。妄想に捉われたまだ見ぬ未来や削除できない過去などは、「今」には存在しないことです。  
 
 しかし、そうはいっても「今を生きる」ことは、我々凡人にはなかなか難しいことです。「ある者は明日に、他の者は来月に、さらに他の者は十年先に、希望をかけている。誰一人として、今日を生きようとする者がいない」と18世紀のフランスの哲学者ルソーも云っています。

 これは、「今」という時間をちゃんと自覚することが、私たちにとっていかに難しいことであるかを物語っていると思います。常に意識して「今を生きる」ことを実行することは大変難しいことですが、「未来とは、今である」は、時々思い出したい言葉です

鬼手仏心

慈悲の心を

 このたび新たにこのエッセイを執筆するにあたり、鬼手仏心という題名をあらためて検索してみました。  まずは鬼面仏心という仏教語が基本となっていることがわかりました。

 外見は怖そうでも内面には仏さまのような心を宿していることを言います。  みなさまも、この人怖そうだなぁ、という第一印象が後日逆転し、恩師や優しい先輩となったという経験があるかと思います。

 この鬼面仏心という言葉はもちろん仏教的に深い意味もありますが、人や物事は外見だけでは判断できないということも表しています。

 この言葉から派生したのが鬼手仏心というこのエッセイの題名です。  優しい慈悲の心があるからこそ厳しい方法・手段を敢えて用いるという意味だそうです。  

 しかしながら現代社会においてはパワハラという言葉もあり、会社や学校での厳しい言葉や強い指導などは禁止されております。

 私は昭和の生まれですので、必要な状況の中ではある程度の厳しい指導を受けてきました。しかし今日の若者たちにはもちろん理解されませんし、禁止されております。

 そしてこの鬼手仏心ということばは外科医が行う手術によくたとえられます。

 敢えて患者さんの体にメスを入れて、患部を切除し回復を願う。  

 まさに鬼手仏心です。

 人権意識や個人の権利などが複雑化している現代社会ですが、鬼手仏心の精神は必ずや我々のためになるものであり、また持ち続けなければならないものだと思います。

 どうぞみなさまも慈悲の心を基本とした鬼手仏心の精神をもって日々をお過ごしください。

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