天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第257号

-比叡山宗教サミット37周年-
「世界平和祈りの集い」8月4日に開催
 比叡山宗教サミット37周年「世界平和祈りの集い」が8月4日、比叡山上で開催される。日本全国から宗教者が集い対話し、それぞれの儀礼を尊重し合いながら心をひとつに世界平和への祈りを捧げる。

 比叡山宗教サミット「世界宗教者平和の祈りの集い」は、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の提唱によりイタリア・アッシジで開かれた「世界平和の祈り集会」の精神を引き継ぎ、昭和62年(1987)に開催。以来、周年記念行事を毎年実施し、世界各地の諸宗教者らが恒久平和実現のための使命と責務を語り合ってきた。

 従来屋外で執り行っていた式典は、昨年から屋内外の2部構成での開催となり、本年は延暦寺会館にて13時から開会される。

 「平和の力を信じ −中村先生の意志を継いで−」と題して、ペシャワール会PMS(ピースジャパン・メディカル・サービス)支援室室長の藤田千代子氏が、故中村哲医師と共に尽力したパキスタンやアフガニスタンでの平和医療活動について講演。また昨年同様にSDGsの観点から、記念品の代わりに制作費相当の浄財を日本ユニセフ協会に寄託する。

 一隅を照らす会館前「祈りの広場」では、サミットで採択された比叡山メッセージを朗読し、平和の鐘を鐘打して各宗教者が黙祷で祈りを捧げる。主催者代表の大樹孝啓天台座主猊下が“お言葉”を述べられ、海外からの平和のメッセージが披露される。

 15時20分頃から屋外で行われる「平和の祈り」は、オンラインでライブ配信される予定。プログラムの詳細は左記の通り。(4面に関連記事)


令和6年8月4日㈰ 13:00開式
平和の式典(屋内)
13:00 開式
13:05  平和を語る(藤田氏講演)
14:20  ユニセフ支援金寄託式
平和の祈り(屋外)
15:20  比叡山メッセージ朗読
15:30  平和の鐘・平和の祈り
15:35 海外からの平和のメッセージ披露
 閉式


詳細は 天台宗公式ホームページ http://www.tendai.or.jp
動画配信サイトYouTubeにて同時配信 配信時間/15:10~

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

知る者は言わず、言う者は知らず。

老子

 「本当に分かっている人は、しゃべらない。よくしゃべる人は分かってはいない」は老子の『老子道徳経』に出てくる言葉です。「俺はこんなに知っているぞ」とばかりに、物知りを誇り、賢(さか)しらにいう人に良い印象は持ちません。

 反対に知恵があっても、あえてひけらかすこともせず、内に秘めている人は奥床しい感じがしますね。こんな人はなかなかいない気がします。

 昨今はユーチューブやSNSばやりで、日夜さまざまな主張が飛び交っています。理にかなった主張、容認できる表現ならいいですが、誹謗中傷一辺倒のものは認められません。残念ながら悪意ある主張が多すぎる現在の状況です。すべての面で自己主張しなければ生きづらいこんな時代には、この言葉のような人は貴重な存在といえましょうか。

 そして、この言葉に続いて出てくる文の中に「其の光を和らげ、其の塵を同じくする」、いわゆる「和光同塵(わこうどうじん)」というよく知られた言葉があります。

 「和光」は尖った才知を和らげ隠すこと、「同塵」は塵すなわち俗世間に混じり同化することです。「自分の才能や優越性をひけらかさず俗世間の中で慎み深く生活すること」という意味です。「知る者は言わず、言う者は知らず。」という冒頭に掲げた言葉の延長線上にある言葉でしょう。

 また、仏教の世界でも「和光同塵」は使われています。辞書には「仏・菩薩が衆生救済のためにその本来の在り方を離れ衆生と同じ次元に現れること」(岩波仏教辞典)とあります。「知る者」と仏様の違いはありますが、どちらも「俗世間」或いは
「衆生」にいかに謙虚であるべきか説いていると思います。

鬼手仏心

79年目の夏

 領法寺に入山し、長野県高森町役場に6年間勤めた。文化平和講演会を担当した時、直木賞作家の井出孫六氏に講師を依頼した。講演後、蓼科(たてしな)高原の仕事場に送る車中で以下の話を聞いた。

 日中国交正常化が成立した12年後、井出氏は中央公論社の記者として中曽根康弘首相の訪中団に加わった。「長野県出身の私としては、昭和20年8月8日、旧ソ連の侵攻で満州の大地を逃避行の末、両親と死別したり、手放されたりした日本人孤児を中国人が引き取って育てた残留孤児の存在が脳裏に浮かんでいた」と。

 当時、現地取材は許されなかった。日本人と思しき婦人に、声を掛けても首を振り答えなかったという。中国東北部(旧満州)を離れる日、駅に多くの人が見送りに集まった。陽が落ち暗くなり、人の顔が見えなくなった。列車が静かに動き始めた時、「ごきげんよう」「お気を付けて、さようなら」と見送る人垣のあちらこちらから日本語での声が多数上がった。中国残留孤児の存在を日本政府が確認した瞬間だった。

 お寺の隣組で総代を勤めた故加藤宗一さんは、戦前、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡った。養蚕業不況の中、農家は困窮していた。「長男は農家の跡取りだから二男三男がねらわれた」。国策としての満州開拓移民である。旧ソ連の侵攻で悲惨な逃避行を続けた開拓団員は、9月9日、丘陵地でソ連軍の機銃掃射に遭った。一団は丘の稜線を左右に別れて逃げ、加藤氏と男性2人だけが生き残り、結婚間もない妻と生死を分けることになったという。

 日本に帰還した加藤さんは再婚し家庭を築き戦後を懸命に生きた。「住職さんに頼みたいことがある。満州で亡くした最初の妻の位牌を持っている」。

 この国の暑い夏は鎮魂慰霊の季節でもある。戦争で犠牲となるのはいつの時も市民だ。

 「心月妙閑大姉 ちせ 二十二歳」
 
 加藤さんの97年の人生に想いを馳せながら本堂に祀る位牌に掌を合わせている。

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