天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第240号

報謝捧げる総結願法要 ー3月16日 根本中堂で奉修ー

 天台宗が平成24年4月から奉修してきた祖師先徳鑽仰大法会の総結願法要が3月16日、総本山比叡山延暦寺で営まれる。
 法要は午前に根本中堂、午後からは大講堂(東塔)、釈迦堂(西塔)、横川中堂(横川)で同時刻に開式し、これまで大法会に関わった宗内外の諸大徳並びに関係者らを多数迎え、祖師先徳のご遺徳を改めて偲び、宗祖伝教大師のみ教えを未来へ繋いでいくことを誓う。

 天台宗並びに比叡山延暦寺では、慈覚大師一千百五十年御遠忌(平成25年)、恵心僧都一千年御遠忌(平成28年)、伝教大師ご生誕一千二百五十年慶讃(平成28年)、相応和尚一千百年御遠忌(平成29年)、伝教大師一千二百年大遠忌(令和3年)を迎え、平成24年4月から祖師先徳鑽仰大法会をスタートさせた。
 
 統一テーマ「道心」、サブテーマ「山川草木みなほとけ」のもと、第一期と第二期に分けた計11年に亘り法要並びに各祖師方の宗風に沿った記念事業を通じ、報恩謝徳の精誠を捧げてきた。

 また、大法会の掉尾(ちょうび)を飾る宗祖伝教大師一千二百年大遠忌に向けては、産学官協働による伝教大
師最澄1200年魅力交流委員会を設立。

 次代を担う若者らが日本文化に直に触れる活動をサポートし、宗祖大師が目指された人材育成の現代版として社会から注目を集めており、活動継続が決まっている。

 -午後からは三塔で法要も-

 総結願法要は、祖師先徳の遺徳を改めて偲び、み教えを未来に繋ぐ機会とする。午前中は根本中堂で、午前10時半より大樹孝啓天台座主猊下を大導師に総結願奉告法要を四箇法要で営む。

 全国30教区の宗務所長が出仕し、大法会顧問の探題・已講などの出世役の方々や宗機顧問、宗議会議員、またこれまで大法会に携わってきた宗内外の関係者ら約200人が随喜して円成への感謝を示す。

 また午後からは、比叡山三塔にある各道場で法要を営む。

 大講堂(東塔)は布教師会、釈迦堂(西塔)は宗議会議員、横川中堂(横川)は天台仏教青年連盟がそれぞれ出仕し、午後2時から一斉に法要を奉修する。

 -法華一乗の社会へ-

 総結願法要に向け阿部昌宏宗務総長は次のように話す。
「長期におよぶ祖師先徳鑽仰大法会期間中には、東日本大震災の影響や地球温暖化に起因する自然災害、またコロナウィルス感染症のまん延による非日常の生活、戦争や紛争に起因する人道問題などの憂慮すべき問題が多発しました。

 また高齢化や地方過疎化などによる社会基盤の変貌、核家族化や個人中心による信仰形態の多様化など、昨今の宗教界を取り巻く環境は一段と厳しさを増しています。

 深い懊悩(おうのう)に沈む現代世相の閉塞感を打破するために、我々が宝とすべきは『道心』であり、その究竟(くきょう)の有り様は『忘己利他』の実践に他なりません。

 今こそ速やかに祖意を恢弘(かいこう)して大乗無作の教風を興し、不滅の法燈に願いを込めて『我が志を述べよ』と遺託された法華一乗の社会、つまり人間のみならず自然も地球環境も『生きとし生けるもの』すべてが、安定と調和を保持し、平和と安寧を享受する社会づくり、すなわち仏国土建設に努めたく存じます」

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

つらければ かくてやみなむと思へども

物忘れせぬ 恋にもあるかな

『玉葉和歌集』

 この和歌には「うらみおぼしめして久しう音せさせ給はぬ人に」という詞書(前書き)が添えられており、いくら恋文を送っても返信がなく恨めしく思った相手に対し、辛いからこのまま終わりにしてしまおうと思っても忘れることの出来ない恋であると詠っています。まるで現代の恋愛ソングを聞いているかのような和歌ですね。

 さて、皆さんは忘れたくても忘れられないものはありますか。この作者の苦い恋愛しかり、挫折を味わった瞬間、不本意にぶつけられた怒り、絶望の縁に立たされた時、あの時言われた心無い言葉など、思わず頭を抱えてしまうような思い出が蘇ってしまうことでしょう。

 では、忘れてはならないのに忘れてしまう、忘れつつある事は何でしょうか。
メモをし忘れた予定、自然の脅威に多くの人が苦しんだ事、久しく会っていない人の声、今も尚、争いで苦しんでいる人がいる事……こちらも百人問えば百通りの答えが返ってくる事と思います。

 伝教大師最澄は忘れやすいものは「善心」であると言っています。
 「得難くしてうつりやすきは、それ人身なり。発し難くして忘れやすきは、これ善心なり」という言葉があります。仏教では人間として生まれる事は奇跡的な事だという風に捉えており、最澄上人も大海の中に漂う1本の針を見つけることや標高何万mもある山から糸を垂らして針穴に入れること以上に困難なことだと言っているほどです。 そのような奇跡の上にある命は限りあるものですから、どうしても自分の赴くままに生き、善の心を持って常に生活する事はなかなかに困難です。それでも忘れずに善心をその内に宿し続け生を全うすることが重要であると考えられたのです。

 人としてこの世に生まれついたことがこの上なく尊いことである、誰もが忘れてしまっている事を最澄上人は思い出させてくれます。

鬼手仏心

子どもの「騒音」

 近年、幼い子たちに対する大人達の眼差しがキツくなっているなと、感じることがあります。
 
 子ども達のにぎやかな声が当たり前な幼稚園や保育園。その元気いっぱいな日常が非難されることがあるのです。

 仲間と和気あいあいとやりとりしている子ども達の声が「騒音」扱いされたりするのです。公園でも遊ぶ子らの歓声が「うるさい」と文句が出ることもあります。

 だから、幼稚園などでは、大きな音や騒がしさが外部にあまり漏れないように工夫したりしているところもあるようです。

 苦情が多く出るのは、子育てを終えた人々など、子どものいない家からでしょうか。そこで、その方たちに考えてほしいことがあります。

 静かな環境で自分の生活を楽しみたいという気持ちもよく分かりますが、自分の子ども時代や、家族に子ども達がいた時期というものを振り返ってみてほしいと思うのです。

 子どもの存在は、常に騒がしさと共にあるのが普通です。その騒がしさは、生き生きとした成長過程の証しでもあるのです。

 昔は濃密な人間関係が世間にあり、互いに認め合ったり、譲り合ったりする心の余裕がありました。子どもの日常もその中にありました。

 しかしこの頃では、直接的な利害関係の是非で互いにぶつかり合うことが増えているようです。子どもの「騒音問題」は難しいことですが、かつてのようにコミュニケーションを深め、折り合える接点を見つけ出すことが大事だと思います。

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