天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第219号

伝教大師一千二百年大遠忌 ――御祥当法要に関するお知らせ

 「宗祖伝教大師一千二百年大遠忌御祥当法要」(6月3日~5日)は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止から内容を一部変更して執行させていただくこととなりました。
 ご臨席を予定されておられました関係者の皆さまにおかれましては、何卒ご理解賜りますようよろしくお願い申し上げます。

 宗祖伝教大師一千二百年大遠忌は、十年間に亘る祖師先徳鑽仰大法会の掉尾を飾る法要と位置づけ、比叡山延暦寺大講堂にて3日の御祥当逮夜法要、4日の御祥当法要、5日の御祥当後法要をそれぞれ厳修いたします。

 感染対策につきましても関係機関と相談を重ねながら準備を進めて参りました。しかしながら4月25日に東京都、京都府、大阪府、兵庫県に緊急事態宣言が発出されて以降も全国的に感染者数は増加の一途を辿っております。

 このような状況を鑑み、5月14日に天台宗及び比叡山延暦寺の両内局役員で構成する大法会事務局会議を開いて検討いたしました。

 その結果、今回特別の献茶と献華、そして献そば、ならびに宗務所長各位の出仕等を取り止めることになりました。また、ご臨席を賜る予定でした教宗派の皆さま、大乗連盟・伝教大師連盟、宗機顧問、門跡大寺、出世役、法灯護持会、魅力交流委員などのご参列も中止にさせていただくことを決めました。

 なお法要につきましては、3日間ともにインターネットによるライブ配信を行います。各寺やご自宅でご高覧いただき、それぞれの場所から祈り、共に祖恩報謝の誠を捧げていただきたくお願い申し上げます。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

伝統とは形を継承することを言わず、
その魂を、その精神を継承することを言う

嘉納治五郎(柔道家、教育者)

 現在、柔道において日本国内試合の際、柔道着は白のみが認められています。
 一方、オリンピックでは、2000年のシドニー五輪以来、白と青の柔道着に分かれて試合を行っています。白と青の方が、選手の見分けがつきやすく、審判の判定もしやすくなり誤審が少ないためだそうです。

 試合における青の柔道着着用の是非が議論されたとき、「白は柔道の心であり、白い柔道着は日本の伝統である」と日本をはじめとした国々が反対しました。それに対して賛成の国々は「柔道は歴史あるものであるが、今や世界的なスポーツである」「守るべきは日本の文化伝統でなく嘉納治五郎の教えと精神、『精力善用』『自他共栄』である」と主張したそうです。

 柔道着の色をめぐる議論は、嘉納治五郎が説いた「柔道を継承する精神、魂」つまりは「柔道の本質」とは何か、ということを考えさせられる話です。この話を深く掘り下げると、おそらくは一人ひとりが違った考えを持たれると思います。

 今年6月4日に、天台宗では伝教大師最澄さまの一千二百年大遠忌御祥当を迎えます。

 お大師さまは「私のために仏を作ってはなりません。私のために経を写してはなりません。私の志を述べなさい」とおっしゃいました。
 嘉納治五郎はこのお言葉を知っていたのではないでしょうか。お大師さまのお言葉に通じるものがあるように思えます。

 江戸時代に生まれ、明治、大正、昭和の時代を駆け抜けた嘉納治五郎は「守るべきは形ではない」「継ぐべきは精神、魂である」と言いました。形にこだわると本質を見失うことを警告しているかのようです。

 私達は今コロナ禍という未曾有の危機を迎えています。まさに激動の時代の中にいるといっても過言ではありません。嘉納治五郎のこの言葉はそのような私達にとって、何を受け入れ、何を変えていくべきかの道標となるといえましょう。

鬼手仏心

「我が志を述べよ」

 宗祖伝教大師一千二百年忌の祥当月を迎えた。
 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、幾多の法要や行事が延期・中止を余儀なくされたのは、誠に無念である。

 大師が遷化された弘仁十三年六月四日を今年の暦に換算すると、六月二十六日になるとのこと。
 中道院という坊舎で往生されたらしいが、それが山中のどの辺りにあったかは定かではない。しかし、「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」の比叡山の、しかも梅雨の真っ只中ということを考えると、全身にまとわりつく湿気に加え、梅雨寒であったことは容易に想像が付く。林立する大木が雨に霞む中、大師の遷化を悼む弟子たちの姿が目に浮かぶようだ。

 最近、いろいろな方に「一隅を照らす」への思いを聞く機会があった。一番多かった答えは、「自分の出来る範囲のことをコツコツとする」というものだった。

 「小さなことからコツコツと」というのは大阪の漫才師の常套句(じょうとうく)である。それぞれの置かれている立場でベストを尽くせば、やがてそれが集まってよりよい社会を作っていく。それも然り。

 しかし、大師の目指された「一隅を照らす」は、もちろんそれに留まるものではない。我ら大師の末弟たる者は、千里を照らすような菩薩僧を目指し、この世をみ仏の慈悲に満ち満ちたものにしていくほどの気概を常に持ち続けることが、大師への報恩だと思う。

 「一隅を照らす」をわかりやすく説くのはいいが、矮小化してはならない。
 大遠忌が充分には行えなかった今だからこそ、「一隅を照らす」と大上段にかまえて声高に言いたい心境である。

 南無宗祖根本伝教大師福聚金剛
(なむしゅうそこんぼんでんぎょうだいしふくじゅこんごう)

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