天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第25号

御廟屋根葺き替え完成-開宗千二百年慶讃大法会事業-

 昨年九月から行われていた比叡山西塔「浄土院御廟」の銅板屋根葺替えと同庫裡唐門の改修工事が完成した。浄土院は、宗祖伝教大師最澄上人の祖廟であり、霊峰比叡の中で最も深厳な聖域である。開宗千二百年慶讃大法会の一環として「総登山運動」が今月から展開されるが、その期間中は特別に、午後のみ拝殿の伝教大師御真影に参拝できる。

 浄土院の屋根葺替えは、数十年ぶり。予想以上に痛みが激しく、追加工事を施し、この度の完成となった。総工費は四千万円。
 浄土院は、宗祖伝教大師の祖廟であり、現在は十二年籠山行の道場でもある。伝教大師は、比叡山で修行し、比叡山で学問するということを重視され、修行を行う場所の清浄さと環境の大切さを説かれ、十二年の間、山上の結界から一歩も出ない籠山行を定められた。比叡山の行中、最も厳しい行として知られる。浄土院に籠もる僧を比叡山では「籠山比丘」(ろうざんびく)と呼び、正式には「侍真」といい、御真影に侍するという意味である。現在の侍真は宮本祖豊師。
 侍真は、伝教大師が、今も生きておられるがごとく仕える。御膳を供え、拝殿の勤行に上がる前には、祖廟に向かった側の廊下の戸と、拝殿の戸を少し開き、大師を御廟からお迎えする。

 -参道整備や石灯籠寄進も-

 普段、参拝者は浄土院の拝殿に入ることは許されない。しかし平成十五年から「総登山・総授戒~あなたの中の仏に会いに」のスローガンで始められた開宗千二百年慶讃大法会が、比叡山への総登山運動を四月から三カ年展開するにあたり、特別に午後一時から三時まで拝殿の扉が開かれ、外からではあるが伝教大師御真影を拝することができることになった。
 これまで、開宗千二百年慶讃大法会は、檀信徒総授戒運動を展開してきており、西郊良光宗務総長は「是非、この機会に浄土院に参拝され、大師のお心に触れ、総授戒で結んだ仏縁を報告して欲しい」と述べている。
 今後は、浄土院の参道改修工事が行われ、今夏には整備を終える。
 また天台宗の各教区では、浄土院の参拝道に七尺の仏前石灯籠を寄進することを決めた。秋の大法要には、二十九基の石灯籠が参道に報恩の彩りを添える。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「新しい靴をはいて」  岡林 美里 

頑張りますとも 頑張れますとも
まだまだ やりたい事だらけ
参りますとも 参れますとも
こんなトコじゃ終われない
やっちゃいますとも
やっちゃえますとも
なにしろ あたし…あたしだから…ね
新しい靴を 買いました

「手の届かない空が見たい」・健友館刊より

 今、若い人たちは「出口がない」とか「自分を取り巻く重苦しい雰囲気」ということを言います。就職意欲がなく働かない「ニート=無業者」と呼ばれる若者たちが急増しています。
 そんな時代だからか、仏教が静かなブームだといいます。「仏教はブームになるような小手先ものではない」と叱られそうですが、自分の心を見つめなおそうという人々が増えているのは、やはり歓迎。それは「マインド=頭」ばかりで考えてきたことを「ハート=心、霊性」でとらえなおそうとすることですから。
 あれもダメ、これもイヤと頭で考えるのではなくて、まず動いてみることが大事です。
 いきなり修行は無理ですが、掃除をしてみる、それも徹底的にしてみると、心の垢が落ちたような清々しさがあります。「こんなトコじゃ終われない」と思うのではないでしょうか。表題詩は、若い女性のものでしょうが、老女だと思って読むと、背筋がシャキッと伸びます。

鬼手仏心

地 震  天台宗出版室長 工藤 秀和

 
 三月二十日に発生した、福岡県西方沖を震源とするマグニチュード七の地震では、福岡県福岡市や佐賀県みやき町で最大震度六弱を観測しました。
 天台宗務庁では、直ちに総務部、社会部をはじめとする担当部局が、当該教区の情報収集にあたり、各寺院の被害状況の把握につとめました。
 数カ寺に壁のひび割れや、灯籠の倒壊がみられたものの、ほとんどの寺院では被害がなく、住職や寺族にも人的被害はありませんでした。檀信徒の皆さまの被害については、各寺院で調査中ですが、被災された皆さまに心よりお見舞いを申し上げます。
 二十一日現在、震度一 以上の余震は百十回観測されており、震度三以上の余震が二十日二十時以降三回発生するなど、余震は引続き発生しています。
 私どもの電話調査でも「四十秒近く揺れ、余震が続いて不安だ」という声が相次ぎました。その不安の中でも、寺院住職が第一に檀信徒の皆さまの安全確認に奔走されているというお話には頭の下がる思いがいたしました。
 かつて、ある高僧から「宗教者の使命というのは、つまるところ、不幸に遭われた方にどれだけ心を寄せることができるかどうかだ」と教えられたことがあります。
 他者を思いやるということは「己を忘れる」ということです。天災などないに越したことはありませんが、逆にいえば、その時にこそ住職の真価が問われます。昨年の中越地震でも殆どの住職が「他を利する」という視点に立って行動されました。宗祖大師の教えは、現代に脈々と生き続けていることを感じます。

仏教の散歩道

功徳の便乗

 ことしの一月に三度目のミャンマー旅行をしました。そのとき、ちょっとおもしろい言葉を覚えました。それは、
 「タードゥ・タードゥ・タードゥ」
 です。タードゥというのは、「あなたはよいことをなされました」といった意味で、他人の善行を誉め称える言葉です。そして、それを三度繰り返すことになっています。
 ちょうどヤンゴンのシュエッダゴン・パゴダに詣でたとき、五十人ばかりの女子学生たちがパゴダの掃除の奉仕活動をしていました。わたしは早速、彼女たちに「タードゥ・タードゥ・タードゥ」の言葉を送りました。すると全員がにっこり笑ってくれました。
 じつはこの言葉は、基本的には他人の善行を誉め称えるものですが、それと同時に、この言葉を唱えることによって、他人の積んだ善行の功徳が自分に向けられるのです。たとえば、誰かがお寺にお金を寄進します。それを見た人がこの言葉を唱えると、その功徳が唱えられた人に向けられることになります。
 そうすると、寄進した人の功徳がなくなるのでしょうか……? ちょっと心配になります。それで、ミャンマー人に尋ねました。
 「いいえ、むしろそれによって、寄進した人の功徳が増えます」
 そう教わって安心しました。しかし、そんな質問をする必要はなかったのです。千円を寄進すれば千円分の功徳、一万円を寄進すればその十倍の功徳と考えるのが馬鹿げているのです。他人が功徳を得ると、自分が積んだ功徳がその分だけ減少すると考えるのが大まちがいです。自分がしたいいことの功徳によって、他の人々も功徳に与かれるのであれば、むしろその分だけ自分の功徳も増える。当然そう考えるべきです。いささか愚かな質問をしたものだと、あとで恥ずかしくなりました。
      *
 わたしたちは凡夫だから、ときに他人の善行を見て、それを率直に誉めることができず、逆にけちを付けたくなることがあります。いえ、みんなを巻き添えにする必要はありません。わたし自身に関するかぎり、どこか他人の善行にけちを付けたくなるこころがあります。それが妬みのこころなんでしょう。
 だからなんでしょう、キリスト教などでは、こっそりと善行を積めと言われています。
 《見てもらおうとして、人の前で善行をしないようにしてください》(「マタイによる福音書」6)
 これがイエスの言葉です。
 ミャンマーの人たちは、それと反対です。他人の善行を誉め称え、その誉め称える行為によって自分もその功徳に便乗することができ、また便乗されることによって善行をした人の功徳が増加します。ミャンマーの人々はそう考えているのです。おおらかでいいですね。わたしは、ミャンマーの仏教がすっかり好きになりました。

カット・伊藤 梓

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