天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第23号

スマトラ沖大地震・インド洋大津波
-救援活動の緊急性を訴える-

 昨年末のスマトラ沖大地震での津波被害は死者・行方不明者が二十九万人を超える未曾有の大惨事となった。全世界から救援の手が差し伸べられているが、天台宗でも、一隅を照らす運動総本部の「地球救援募金」を窓口に救援活動を始めている。

 津波によって被害を受けた地域で今後問題となってくるのは、感染症への対策や、被災者の心のケアなどソフト面での長期的な支援体制である。
 去る一月十五日、公務でタイ入りしていた西郊良光宗務総長は急遽地球救援募金から、プラティープ財団国際部「津波プロジェクト」に一時義援金を手渡し、その後被災地であるタイ・プーケット島のカオラック地区を視察、現地の生の声を聞いて回った。
 西郊総長は「被災地を視察してみて、惨状の凄まじさに声を失った。現地の声に応える救援活動を行っていきたい」と語り、昨年国内で起こった数々の災害への救援活動を生かした取り組みを行う決意を示した。阪神大震災や中越地震を体験した我々としても、「己を忘れて他を利する」という宗祖大師の御心を体した救援活動が求められている。

 -新潟中越地震被災寺院に復興支援金贈る-

 新潟中越地震では信越教区新潟部の各寺院も大きな被害を受けたが、被災地は今、厳しい冬を迎えている。例年にも増して降り積もる雪の中、現地では、春からの本格的な復興作業に向け、様々な努力が続けられている。
 天台宗では、去る十二月十六日に信越教区の被災寺院に対する災害復興支援金査定委員会を開き、被災寺院十二カ寺への支援額を決めた。支援金は全壊、半壊など四ランクに分けられ、総額二千数百万円の支給が決定された。災害対策本部は十二月二十四、二十五日、壬生照道一隅を照らす運動総本部長及び小山健英現地対策本部長ら関係者を現地に派遣し、各被災寺院に支援金を贈った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

親の愛をうけた人間は、その愛を子供に返し、孫に返し、子孫に返す。これは自然ですね。子孫ばかりではなく、社会全体にも返す。そういう心を持って人に接することが、私は道徳の源だと思います。

『梅原猛の授業 道徳』 梅原 猛著 朝日新聞社刊

 例えば、生きているものを殺してはいけない、嘘をついてはいけない、人の物を盗んではいけない―、 こういった教えを私達は家庭の中で学び、育んでいきます。親の無償の愛を受け、育っていく過程の中で、基本的な価値観を形成するのです。そこには父親、母親の考え方が色濃く反映します。
 与えられなければ、与えることができません。子どもの頃に虐待を受ければ、自分の子どもにも虐待を与えるという指摘がなされています。
 成長して後、不正直な、自分のことしか考えない人間になるようでは情けない話です。
 自分が生きている喜びを、他の命を持つものと共有して生きる人々が増えれば、この社会ももつと良くなると思います。「道徳」といえば、堅苦しいかもしれませんが、頂いたものを返すと考えればよいのかもしれません。それは「一隅を照らす」ことと同じです。

鬼手仏心

悟 り  天台宗出版室長 工藤 秀和

 
 「和尚さんは、悟っているのですか?」と聞かれることがよくあります。
 ある行者さんのように「行をしたからといって、悟れるというものではない。ただ異常な体験をしたにすぎない」と言えれば、まだ格好もいいのですが、私などは「仏道に精進してはおりますが、まだまだ凡夫。仏さまではないので、悟ってはおりません」と答えるのが、やっとです。
 それは、お釈迦さまの悟りの境地に達するのが理想ですが、僧侶といっても人間です。色々と悩みもあれば、失敗もします。それゆえに、毎朝、仏さまに「本日もよろしくお導き下さい」とお経をあげ、夕方には「今日も、こんな失態をしでかしました。申し訳ありません」とお詫びしています。そうすると仏さまが「是非もない。お前も、まだまだじゃな。明日は頑張れよ」と許して下さるので、明日への元気が出るという、悟りとはほど遠い毎日です。
 しかし、私は(自分は、仏さまのお許し、慈悲を頂かなくては、生きていけない欠陥だらけの人間だ)と自覚することが、実は悟りへの第一歩ではないかと思っているのです。それは自分の弱さを知ることでもあります。
 そう思えば、他人を許すことができます。戦争などという野蛮な行為も、「こちらの方が絶対正しい」という「正義」から始まることを、私たちは見ました。確かに、生きる上で正義は必要ですが、自分自身を考えてみると、おまえは正義だけで生きているのか、という疑問が湧きます。むしろ些事に一喜一憂し、日々をおろおろと生きているに過ぎません。
 仏さまに許され、隣人に許し許されして、ようやく息をついている自分であることを見つめると、雪に押しつぶされそうになりながらも春を待つ、草木の息吹が聞こえてくるように思われます。

仏教の散歩道

己を忘れる

 ジュール・ルナール(1864~1910)は、あの名作『にんじん』で知られたフランスの作家です。彼には二十三年間にわたって書き続けた『日記』もありますが、その中に、
 《自分が幸福になるだけでは不十分である。他人が不幸になってくれないと…》
 といった言葉があります。〈うん、その通り〉と頷きたくなるアフォリズム(警句)です。
 でも、頷いていいのでしょうか。
 たしかに、われわれは他人の不幸を喜びます。他人が不幸になれば、こちらが幸福になったかのように錯覚するのです。だから、他人の不幸に表面的には同情しても、心の奥底ではにんまりとしているのです。逆に他人が幸福になれば、なぜか自分が損したような気になるのです。それが凡人の性というものでしょうが、悲しいですね。
 そう思ったとき、反射的に浮かんでくるのは、日本天台宗の開祖の伝教大師・最澄(767~822)の言葉です。
 《悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極なり》
 〔好ましくないことをみずからすすんで引き受け、好ましいことは他者に振り向け、自分の利益を忘れて他者を利するのが、慈悲の究極のあり方である〕
 この言葉は、最澄の『山家学生式』に出てきます。己を忘れて他を利するというのは、「忘己利他」です。まるで「もう懲りた」と言っているみたいですね。それはともかく、わたしたちが 他人のためになることをしようとすれば、まず自己を忘れないといけないのです。自己を忘れたとき、われわれは他人のことを考えることができます。逆に自分の利益を考え、自分が幸福になりたいと思えば、われわれは他人の不幸を願うことになりそうです。それがルナールの警句でした。最澄は、だから「己を忘れよ」と言っているのです。
 とすると、問題は、どうしたら己を忘れることができるか、です。
 われわれはなかなか自分のことを忘れることはできませんが、そのいちばんいい方法は、というよりこれしかない方法は、
 -わたしのことはほとけさまがしっかりと考えてくださっている-
 と信じることです。自分で考えるよりも、もっといいことを、ほとけさまが考えてくださっていると信じる。そう信じて、ほとけさまにおまかせするのです。そうすれば、己を忘れることができ、そして他人のために何かをしてあげられるのです。
 いや、逆かもしれません。われわれが他人のために何かをしてあげていれば、そのうちにきっとわたしのことはほとけさまが考えてくださっていると信じられるようになります。そうすると己を忘れることができそうです。

カット・伊藤 梓

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