天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第191号

平成31年延暦寺年賀式を執り行う
 「平和で住みよい地球でありますように」
      森川座主猊下が新年にあたってお言葉

年が明けた平成31年1月8日、比叡山延暦寺において延暦寺年賀式が催され、宗内諸大徳、山門出入方、政財界など多数の方が参列し共々に新しき年の門出を祝った。

 年賀式は延暦寺会館において午前11時より行われ、最初に森川宏映天台座主猊下を導師に法楽が執り行われた。
 法楽奉修の後、森川座主猊下より新年にあたってのお言葉があった。冒頭、平昌オリンピック・パラリンピックなど昨年のスポーツ分野やノーベル医学・生理学賞の受賞など日本人の活躍に勇気づけられたと述べられた。また、延暦寺総本堂根本中堂の改修事業の進捗状況に触れられ、着々と進められている旨を明らかにされた。
 さらに、二年後の伝教大師1200年大遠忌を控え、宗祖の御教え、御功績を伝える「魅力交流事業」を進めることなどに触れられた。
 そして、昨年襲った大阪北部や北海道胆振東部地震、西日本豪雨、台風被害など自然災害にも言及され、本年が平和で住みよい地球であるように祈念しますとのお言葉で結ばれた。(写真)
 杜多道雄天台宗宗務総長も「科学技術の発展により便利な社会となったが、それに振り回され、元来備わっていた人間の能力が失われつつあるのではないか。宗祖の示された分かち合いや共生の教え、一隅を照らす精神を弘めていくことが我々の責務と思う」と新年にあたっての挨拶を行った。
 また、毎年発表される「比叡山から発信する言葉」として『照続永劫(しょうぞくえいごう)』という言葉が小堀光實延暦寺執行より披露された。小堀執行は「宗祖伝教大師の御教え、御心は『不滅の法燈』のように脈々と世を照らし続けている。そのともしびを幾千代までも永く照らし続けていこうという言葉です」と意味を紹介、その実践を呼びかけた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

世が末になったのが悪いのではない。
人が精を出さなくなったのにこそ罪がある

『葉隠』 山本常朝

 葉隠は、江戸時代中期の書で「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉で知られています。
「目的のためには死を厭うな」というように解釈されることが多いようですが、真意は違うようです。利己的な判断を捨てる、つまり、自己を捨てる(死ぬ)ことで最良の結果を生むことができるという意味だといいます。
その葉隠にある言葉です。
「今時の若い者は…」と云われるのと同じく、いつの時代も「世の中が悪くなった」と嘆くのが常ですが、今の日本はだんだんと悪くなっているように思えます。「世も末」と嘆かざるを得ないような状況かもしれません。
「精を出す」とは、一所懸命に働く、心や魂を込めて物事を行うことです。
この葉隠の引用では、世の人がそれを忘れてしまっていることが悪いというのです。その結果として「世も末」になった一因でもあるわけですから、元をただせ、ということでしょう。
つまり、「世も末となったのは自分のせいではなく、他人のせい」、あるいは、「世の風潮」のせいだと責任転嫁するのではなく、その原因の一端は、精を出さずに易きに流れた自分であると認めなさい、ということでしょうか。
日々の過ごし方の基本には、誰もが認める善悪の判断や道徳観があります。人間が共同体を作って生活する上において必要かくべからざる規範ですね。
でも、個人でも共同体全体としてもその規範が必ず守られるものではありません。少し前の「バブルの時代」などは典型です。規範も何のその、我もわれもと物欲にひれ伏す様相でした。
ですから、この掲げた言葉もいつも心に留めておきたいものです。

鬼手仏心

『大人と子どもとどっちが偉い?』

 『バナナは、仏さまに上げてから食べると美味しくなるんだ』
 四十年前の出来事ですが、中学一年生が給食の時間に発した今も耳に残る忘れられない一言です。 私が幼い頃は、バナナは極めて贅沢品でした。しかし、当時では、グレープフルーツと並び、学校給食メニューにしばしば登場する果物になっておりました。とはいえ一本の半分づつ給されるバナナは未熟なことがよくありました。
 そんな未熟なバナナが出た時に発せられた言葉でした。驚いて思わず「そんなことよく知っているなあ」と声をかけたところ「うん、お祖母ちゃんが言っていた。他の食べ物もそうなんだ」。なんと数人の生徒も頷(うなず)いているではありませんか。
 太平洋に面した漁業を主たる産業とする地域とはいえ「素晴らしい躾(しつけ)を身につけた、なんと素直かつ素朴な子どもたちだろう」と微笑んだ思い出です。
 考えてみますと、農業や漁業、いわゆる第一次産業がまだまだ盛んだったあの当時は、人間の力では如何(いかん)ともし難いことへの畏れがありました。神や仏、ご先祖の助けにすがり、自然現象を素直に受け入れようとする古来から受け継いできた遺伝子が濃かったように思います。
 かなり前に話題になりましたが「給食費を払っているのに、なぜごちそうさまというの」「なぜ人を殺してはいけないの」との発言がありました。悲しく思いました。「ひと味上げてくれる仏さまの智慧」「ごちそうさまと言うこと」「人を殺してはいけないこと」を日常生活の中で、ごく自然に躾けてくれる家庭内のベテラン教育者が少なくなったように思います。大変なことです。
 未来を担い、これから偉くなる子どもを、真っ当な大人になるよう誰が育てていくのだろう。─それはあなた。とりわけ、寺院・坊さんの役目です!

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