天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第172号

兵庫・神奈川教区で特別授戒会
天台宗祖師先徳鑽仰大法会
両教区で六百名を超える仏弟子が誕生

特別授戒会が祖師先徳鑽仰大法会の一環として各地区で奉修されているが、6月9日に神奈川教区、16日に兵庫教区で執り行われた。神奈川教区は戒弟157名、兵庫教区は450名が仏弟子となり、今後の精進を誓った。

新たな菩薩となって
兵庫教区は、大樹孝啓探題大僧正を伝戒和上に迎え、丹波市のライフピアいちじまを会場として授戒会が行われた。
 特別授戒会は開宗1200年慶讃大法会以来、13年ぶり。
 説戒師の教区布教師会会長の吉田実盛真光院住職から心構えが伝授された後、午後1時から開会。荘厳された壇上で、大樹伝戒和上が伝教大師が中国から授かった十二門戒儀を一つひとつ順序立てて説示した。戒弟全員に「おかみそり」を、師の國岡惠心八葉寺住職、雲井明善長光寺住職が仏舎利を授けた。
 大樹伝戒和上は「今日を気持ちや考えを変える機会とし、〝新たに菩薩になったんだ〟という思いを持って欲しい。これが伝教大師様にお応えする大事な行いであると私は信じている」と戒弟に教示した。随行長は小堀光實延暦寺執行、随行員に森田源真天台宗参務、教授師は高山良彦延暦寺一山戒光院住職がそれぞれ勤めた。

五戒を日常生活に
 神奈川教区では、横浜市西区の圓満寺(西郊良光住職)で叡南覺範探題大僧正を伝戒和上に奉修された。
 午後1時に開会し、奉行の榎本昇道宗務所長、随行長の小堀光實延暦寺執行がそれぞれ挨拶。『発心のおつとめ』を唱和後、説戒師の多田孝文大聖院名誉住職が心得などを伝授した。続いて戒弟らは叡南伝戒和上よりおかみそりを受け、羯磨師の浮岳堯仁泉福寺住職から仏舎利を授かった。叡南伝戒和上は「五戒をしっかりと守って頂き、念仏をお唱えしてほしい」と、これからの日常生活への指針を示した。
 なお、教授師は小堀光雄青柳院住職、随行員に浅野玄航天台宗参務が勤めた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

人は何か一つくらい誇れるものを持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やれば出来る

こんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ
         

北野 武

 日本人は「がんばればできる」という根性論が好きだといいます。
 「結果はともあれ、がんばった過程が大切」「努力することに意味がある」など、誰もが聞いたことがある言葉でしょう。
 何かを持っていることが人間としての価値を持つかのように考えられているところがあります。だから「夢をもて、目的をもて、やれば出来る」と子どもに対してであれ部下に対してであれ、発破をかけ続けます。
 しかし、北野武さんは、そんな表面的な理想論を蹴散らしてしまっています。
 むろん、道を究めた人は立派です。研究者や医者、学者、職人、美術や音楽等に携わる芸術家、文化人、スポーツ選手…さまざまな専門分野で登りつめた人、上を目指して努力を間断なく続けている人は、素晴らしい人間に違いありません。そういう生き方に、人びとは心を揺すぶられ、感動し、わが師と仰ぐことも多いでしょう。彼らの存在が人々に勇気を与え、人として誇りに感じることもあるでしょう。
 けれども、残念ながら人は生まれながらに平等であるとは言い切れないところがあります。持っている人、持っていない人、できる人、できない人、美しい人、そうでない人。様々に生まれて様々にその生を終えます。平等なのは、「生まれてくる」ことと「死ぬ」ことくらいです。生きているものは必ず「死」を迎えます。
 その存在が何であれ、生きていくこと。そして与えられた場所で懸命に生を全うすることこそが、尊いのではないでしょうか。
 そして、そういう生き方を認めることができる人でありたいと思います。

鬼手仏心

 便利な世の中 天台宗財務部長

この数十年で随分便利な世の中になりました。お母さんの仕事(別に差別意識はありません)にしても、起床して就寝するまで家事に追われていたのが、今ではほとんどが電化製品に任せられています。私が子どもの頃には、お風呂を沸かしたり、七輪(死語になっています)で火をおこしたりは、子どもやお父さんの役目でした。そのほかもほぼ人の手でしなければなりませんでしたが、それぞれ家族が役割を果たしていました。
 便利さは食べ物にも及んでいます。半調理されたパック入りの食品、カットされ、柔らかく食べやすい食品など。そのためか、昭和40年頃を境に、子どもの下顎の骨格が小さくなっていると聞いています。これは強い力で噛むことが少なくなったことが原因といいます。その結果、ほっそり顔の子が多くなったようです。また、昔は、おむつが干してあることで、赤ちゃんのいる家庭が分かりましたが、今はお尻がサラサラとなる紙おむつ全盛時代で、洗濯物で赤ちゃんがいるかどうかは分かりません。
 しかし、これらはどうなのでしょう。便利さの陰に隠れて、私たちが見失っているものはないでしょうか。例えば、赤ちゃんはおむつが濡れて、不快の感情を学び、おむつを替えてもらって、母親の愛情と快の感情を憶えます。これは、紙おむつではどうでしょうか。もちろん、良い面もあるでしょうが。まあ、これは、一つの私的な意見かもしれません。
 しかし、私たちが便利だと思っていることが、子どもたちの情緒の発達など、成長にとってマイナスに作用していないと言い切れるでしょうか。便利な世の中になったものだと思いながらも、そのことを考えずにはいられません。

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