天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第161号

広島で「戦歿者慰霊・世界平和の祈り」法要営む

開宗一千二百年慶讃大法会の記念事業として行われた三県(広島・鹿児島・沖縄)特別布教の一環として、平成17年に広島で「戦歿者慰霊・世界平和の祈り」法要が営まれた。本年も、去る7月14日に第12回目となる同法要が厳修され、広島平和記念公園・原爆供養塔の霊前において、犠牲者の追悼と不戦の誓いを捧げた。今回の法要には、三教区有志住職および岡山教区第2部の檀信徒約120名が参列、ともに先の大戦戦歿者への慰霊と世界の恒久平和を祈った。

  この法要は、先の大戦の犠牲者や原爆犠牲者の慰霊とともに、悲惨を極めた戦争体験を風化させず、平和の大切さ、尊さを後の世に伝え続けていくために営まれている。法要を主催する岡山・山陰・四国の三教区も、法要の根幹であるこの精神を絶やさない決意を持ち続けている。
 特に本年は、現職の米国大統領として初めてオバマ大統領が広島の地を訪れ、原爆犠牲者の慰霊をするとともに、核兵器廃絶への思いを明らかにし、原爆の悲惨さと平和を希求する思いを世界に訴えた象徴的な年となった。
 法要は午後1時45分より、永宗幸信岡山教区宗務所長を導師に、三教区有志住職らを式衆に、厳かに執り行われた。同法要には、小堀光實延暦寺執行、水尾寂芳延暦寺副執行、横山照泰一隅を照らす運動総本部長、葉上観行宗議会議員、永合韶俊宗議会議員、木村俊雅四国教区宗務所長らが来賓として参列した。
 法要を終えるに当たって、小堀延暦寺執行及び葉上宗議会議員が、原爆犠牲者への回向と、世界平和を希求するこの法要を絶やすことなく続けていくことの意義を強調する挨拶を述べた。また、今法要では、原爆投下時に焦土と化した地で水を求め、苦しみのうちに亡くなった多くの犠牲者のために、比叡山で汲まれた霊水が法要祭壇に捧げられた。
 導師をつとめた永宗岡山教区宗務所長は「今回は、岡山教区第2部の檀信徒、寺院住職の方々の参列を頂き、一緒に慰霊と平和への祈りを捧げることができた。今後もこの法要は継続していきたい」と振り返った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

自由とわがままとの界(さかい)は、
他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

『学問のすすめ』福沢諭吉

 「何が悪い!私の自由だ!」とは、確かに、わがままな人の常套句ですね。
 すでに福沢諭吉の時代から、「わがまま」に「自由」という衣を着せて見栄えよく見せることで、やりたい放題に振る舞う人が大勢いたのでしょう。
 「わがまま」と「自由」の見分けは、難しいものです。福沢諭吉は、「私財を投じてやりたい放題に振る舞うのは、たとえ自分のお金であっても、その行いが多くの人の関心を引き、社会に悪影響を及ぼすのならば、それはわがままであって自由とは決して言わない」というような表現で、「わがまま」と「自由」の違いをわかりやすく説明しています。
 「自分で責任を取るのだから、何をしてもよいのだ」というのでは、道理が通らないということなのでしょう。
 ところで、6月に行われたイギリスのEU離脱の是非を問う国民投票のニュースは、世界を震撼させました。離脱か残留、どちらが正しかったのか。投票結果が出た今となっても、本当の答えはわかりません。
 ですが、福沢諭吉は言います。「自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。(略)我国より外に国なき如く、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)々々と唱え、(略)自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、却ってその夷狄にくるしめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずして我儘放蕩に陥る者というべし」。
 離脱派、残留派、いずれの主張も、自国の利益にばかり目を向けているようでは「わがまま」と受けとられても仕方がないのかもしれません。

鬼手仏心

浄土は何処に 天台宗参務教学部長 中島 有淳

 『維摩経』には「心清浄なれば仏土浄らかなり」とあります。つまり仏は娑婆世界こそ浄土であるといわれるのです。
 仏のこのことばに十大弟子の一人である舎利弗は、「仏が住んでいるこの娑婆世界は、当然浄土でなくてはならない。しかしこの現実世界は苦しみ多く穢土(けがれた世界)ではないか。これは矛盾である」と疑問を仏に問うのです。仏は答えて、「舎利弗よ、衆生は罪があるため如来の国土の清らかさを見ることができない。これは如来の咎ではないのだ。舎利弗よ、この国土は本来清浄であるのに、お前さんはそれを見ることができないのだ」と諭します。「もし浄土を得んと欲せば、まさにその心も浄くすべし、その心の清きに随って、すなわち浄し」と説くのです。
 このことは、仏の教えの根本は心であり、心が一切の本であることを説いています。心の中に国土があり、心のほかに国土なく、心を清らかにしなければ、浄土は得られないのです。
 初期の経典『法句経』には、「すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。穢れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うというのは、ちょうど牽く牛に車が従うようなものである。しかし、もし善い心でものを言い、または身で行うと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。(善因樂果・悪因苦果)」と記されています。
 生命は勿論、財産や地位や名誉も世界はすべて無常であります。それらに執着する目でみるとこの世は穢土に映るでしょう。
 そこで仏は、浄らかな心でもってあらゆるものを見ることの大切さを繰り返し説きます。現在のそのままが穢土であり、浄土だと説いているのです。

仏教の散歩道

おんぶお化けと仲良く

 昔話に「おんぶお化け」というのがあります。
 川岸にお婆さんがいて、やって来た旅人におんぶをして向こう岸に渡してくれと頼みます。気のいい若者は、お婆さんをおんぶして渡してあげます。
 ところが、向こう岸に着いても、お婆さんは背中から降りようとしません。いくら振りほどこうとしても、すればするほどお婆さんはますます背中にしがみついてくるのです。なにしろお化けだから、どうしようもないのです。
 で、どうなったか……?残念ながらわたしは、そのあとの話の展開を忘れてしまいました。若者が婆さんを振り落とそうとすればするほど、婆さんはますます若者にしがみつき、ついに若者が殺されてしまった、という話であったかもしれません。あるいは逆に、若者がおんぶお化けのことを忘れてしまい、気にしなくなったとき、いつのまにか背中の老婆がいなくなった︱といった話であったかもしれません。それはどちらでもいいのです。じつはわたしは、ここでおんぶお化けに対応する二つの方法を考えました。
 その一つは、馬鹿なやり方です。お化けを背中から降ろそうとしてあれこれやってみて、結局はお化けに殺されてしまうのが馬鹿のやり方です。
 もう一つは、おんぶお化けを気にせず、本人が背中におんぶお化けのいることを忘れてしまったとき、いつのまにかお化けがいなくなっている。そういうやり方を、わたしは阿呆のやり方と命名します。
 そして、じつは仏教の教えは、わたしたちに阿呆のやり方をすすめています。
 人生において、わたしたちはさまざまな悩みを持っています。病気を悩んだり、貧乏を苦にします。そして、貧乏な人があれこれ算段し、努力して、金持ちになろうとします。けれども、そう簡単には金持ちになれません。また、ほんの少々金を稼いでも、これじゃあダメだ、もっと稼がないといけないと、欲望が肥大します。だから満足できません。それでさらにあくせくします。それが馬鹿なやり方です。
 それじゃあ、幸せになれませんよ。
 阿呆は、むしろ貧乏神と仲良くすることを考えます。背中の貧乏神(おんぶお化け)を振り落とそうとせず、貧乏神を背負ったまま楽しく毎日を暮らそうとするのです。
 ≪たしかにわたしは貧乏です。でも、わたしはただ貧しいだけで、ほかにこれといって災厄もないし、まずまず健康です。これは貧乏神がわたしを守護してくださっているのですね。貧乏神様、ありがとうございます≫
 そう思いつつ毎日を感謝の気持ちで生きるのです。それが阿呆のやり方です。
 そして、この阿呆のやり方が、じつは仏教の教えだとわたしは考えています。

カット・酒谷 加奈

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