天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第156号

新会長に大樹孝啓探題大僧正を決定

一隅を照らす運動総本部(横山照泰総本部長)では、2月1日に開催した理事会で新会長に大樹孝啓探題大僧正(書写山圓教寺住職)の就任を全会一致で決めた。昨年12月に森川宏映前会長が天台座主に上任され、同運動総裁に就任されたことに伴う後任人事。また同理事会ではNPO法人ミンガラバー地湧の会(宮下亮善会長・九州東教区大雄山南泉院住職。以下地涌の会)が行っているミャンマー連邦共和国の子ども達への教育支援を視察したことも報告された。

 大樹新会長は、平成22年に探題に補任された次席探題(森川宏映座主猊下に続く座主継承者)でもある。
 新会長としての抱負をお聞きした。
−一隅を照らす運動をどのように捉えておられますか?

 東日本大震災は目を覆うような大惨事でした。私ども、兵庫県民は、津波や放射能災害はありませんでしたが、阪神淡路大震災を経験しました。
 どちらの大災害についても、市民、また天台宗の若い僧侶を中心に「何とか困っている人の役に立ちたい」という人達が、誰呼びかけるともなく集まりボランティア活動に従事されました。この「己を忘れて他を利する」の気持ち、これこそが「一隅を照らす」という運動の根本にあるものと思います。
 最近、日本だけではなく、世界中で自然災害が非常に増えています。これは地球の怒りという気がしてなりません。自然を自由に支配するというのが欧米の考えですが、東洋では自然と人とは共生し、自然の恵みに感謝し、自然に生かしてもらっているという考え方です。地球の怒りを鎮めるには、自然と共に生きるという考え方に立つべきでしょう。

−一隅を照らす運動をどのように推進していかれるのでしょうか?

 かつて、日本は敗戦で塗炭の苦しみを味わい、食べるものも満足にありませんでした。しかし、まだ互いに思いやる心があった。今は、飽食の時代ですが、自分だけ良ければいいという風潮です。
 大量生産、大量消費こそが幸せであるという幻想から醒めるべきです。そう考えれば「もったいない」という思いを持つことも大事です。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

みんな平和について語るけれど、誰もそれを平和的な方法でやってないんだ

ジョン・レノン 

ビートルズのリーダーとして活躍した故ジョン・レノン(1940―1980)は、解散後、オノ・ヨーコと共に平和運動に身を投じた時期があります。ベトナム戦争の最中でした。戦争に強く反対していたジョンは、イギリスがベトナム戦争を支持したことを受け、大英帝国勲章を返上したほどです。二人は音楽や映像等メディアを通じて、奇抜なパフォーマンスで平和を訴えました。
 ベトナム戦争から約50年がたち、ジョン・レノンが亡くなってから35年を経ていても、残念ながら「平和的な方法」は政治的には実行されていません。
 かつて国の内外で戦争が絶えなかったアフリカのコンゴ共和国には「サプール」と呼ばれる人々がいます。サプールとはフランス語で「おしゃれで優雅な紳士協会」の頭文字をとった「サップ(SAPE)」を体現する人の意味です。
 週末になると、首都ブラザビルにはカラフルな服に身を包んだサプール達が現れ、歓声が上がる中を優雅に闊歩します。彼らは一般人ですがスターなのです。そのファッションは日本人でも買うのをためらうような高級ブランドです。
 コンゴ共和国は豊かな国ではありません。国民一人あたりの国民総所得は年収で2798ドル(約33万円強)程です。そして、サプール達も特別ではありません。彼らは自分の給料の数ヶ月分の高級スーツを買い、休日にはそれを纏(まと)って道に繰り出し、平日には慎ましい日常へと戻ります。
 彼らがめざしているものとは何でしょう。
 サプール達は、エレガントな服を身に纏うことで、戦いや争いを好まなくなりました。また教養を身につけ誰よりも強い倫理観を持つことを誇りとしています。まさに「平和的な方法」を人生をかけて「おしゃれで優雅」に実践している人達なのです。

鬼手仏心

一隅を照らす点灯を!

 気象状況の変化、空模様に応じての車輌のライトの点灯は、目下「昼間点灯運動」として展開され、日本社会でも認知されつつあるが、その意識はまだまだ低いようだ。中には日が落ちて辺りが暗くなっているにも拘らず無灯火で運転している者すらある。
 決して欧米社会を褒めるわけではないが、緯度の高いヨーロッパなどは昼間でも車のライトを点灯して走っている光景をよく見かける。冬期などは尚更のこと。日が短く曇天になると対象物を認識することすら困難になる。こういった状況から運動は始まったようである。
 欧米の地形・日本の地形、それぞれ違う。欧米では地平線が見え直線道路も多く、実際走ってみても遠近感が掴めず、そのための早めの認知とも聞く。
 一方日本の地形は、山あり谷あり道路が曲がりくねり変化も多い。
 確かに我々はいろんな面で恵まれている。恵まれ過ぎている故に、何故明るい昼間からライトを点灯しなければならないのかと思うのだろう。
 いやいや、車の動きは速いのだ!点灯していることによる動体の認知度の差は歴然としているのである。
 こんなところにも「一隅を照らす」という捉え方、他に対する心遣いというものができるのではないか。自分さえよければいいんだという思い上がった気持ちが、他者を思いやるという気持ちを消してしまうのだろう。ここでも強者の論理の横行である。
 どうか他者のためにも弱者のためにも、本当に心豊かな社会を目指すのであるならば、ただ単なるキャッチフレーズ、流行といった一過性で終わってほしくない。
 心は見えないけれど、心遣いは見える。思いは見えないけれど、思い遣りは見える。
 さて、皆さんの思いは如何。 

仏教の散歩道

『法華経』の「方便品」の中に、

 といった言葉があります。“諸法”とは「もろもろの事物」で、その真実の相(すがた)は仏だけが知っておられる。逆にいえばもろもろの事物の真実の相は、仏にならねば分からない。われわれ凡夫はものの真実の相を知ることはできない。そういった意味です。
 たとえば、ここにコップに入った水があります。いまそれは水の相をしていますが、わたしがそれを飲むとそれは尿になり、下水に流れて海に出る。その海水がやがて雲になり、雪に変り、雪が融けて川の水になります。水・尿・海水・雲・雪……とさまざまな相を示す、そのうちのどれが本当の相(実相)でしょうか?わたしたちには分かりませんよね。それが分かっておられるのは仏だけです。『法華経』はそのように教えています。
 同様に、いまあなたの目の前にいる人は、いかなる人でしょうか?その人は、やさしく、親切で、善人のように見えます。けれども別の人にとって、その人はとんでもない悪人かもしれません。また、あなたはいまその人を善人と見て付き合っていますが、いつか未来にその人に裏切られて、その人を悪人とののしることがあるかもしれません。その人の本当の相は、われわれには分かりません。それが『法華経』の教えです。
 では、どうすればよいでしょうか?
 相手の実相は分からないのだから、むやみに人を信じてはいけない。わたしたちは『法華経』からそういう教訓を受け取ることもできます。でも、それじゃあちょっと悲しいですね。猜疑心にあふれて、とても狭量です。仏教者らしくありません。
 わたしは、ここから、
 ―人を裁くな!―
 の教えを汲み取りたいと思います。しかし、「裁く」というのは、他人の罪を暴き、審判することだけではありません。「あの人はいい人だ」と評価するのも裁いていることになります。
 したがって、わたしたちは、その人の実相がいかなるものかを極め付けずに、いま目の前におられる人と淡々と付き合っていく。それが仏教者のとるべき態度だと思います。
 目の前におられる人がわたしに親切にしてくだされば、わたしはその親切にしっかりと感謝します。
 逆にいやな人に対しては、その不快の心のまま、それでも自分にできる最善を尽くせばよいでしょう。われわれは、〈この次、この人に会ったとき、何か仕返しをしてやろう〉と考えますが、しかしその次に会ったときにはその人は別人になっているはずです。それが「諸法実相」なんです。大事なことは、わたしたちは「いま」をしっかりと生きればよいのです。不快であれば不快をしっかりと生きる。それが仏教者らしい生き方だと思います。

カット・酒谷 加奈

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