
わたしはみずから「仏教原理主義者」を名乗っています。
そうすると、よく誤解されます。原理主義者といえば、人々は過激派を連想します。けれども、原理主義者イコール過激派ではありません。
〝原理主義〟は、英語で〝ファンダメンタリズム〟といいます。これは〝根本主義〟とも訳されます。そしてファンダメンタリズムは、一九二〇年代のアメリカのプロテスタント教会内で起こった運動で、聖書の無謬性(むびゅうせい)を信じ、聖書を合理的に解釈しようとする世の風潮を批判、排斥しようとするものです。
わたしたちの感覚からすれば、合理的に解釈することは正しいことのように思われます。しかし、「合理的」ということは世の中の都合を優先させているのです。それはちょうど『日本国憲法』の解釈と同じで、経済発展の都合上、あるいは政権党の都合上、勝手な解釈をして、それを「合理的」と称しているのです。聖書をそのように「合理的」に解釈してはならない−というのが、原理主義の主張です。
ですからわたしは、「原理主義」の反対は「ご都合主義」だと思います。
ご都合主義というのは、例の有名な、
−赤信号、みんなで渡れば怖くない−
がそうです。原理主義だと、赤信号では渡ってはいけません。でも、そんなことを言っていると、なにかと不便です。現に、高速道路で制限速度を守って運転すれば渋滞が起きかねません。それで少しぐらいのオーバーは許されるといった解釈が合理的とされるのです。
もっとも、交通法規は世の中の問題で、世の中ではご都合主義的解釈が許されるかもしれません。だが、わたしは仏教者として、仏教においてはそんなご都合主義的解釈は許されないと思います。いや、許してはならないのです。仏教は原理主義でなければならない。それが、わたしがみずから「仏教原理主義者」を名乗るゆえんです。
たとえば、仏教では、
−少欲知足−
を説きます。あなたの欲望を少なくし、足(た)るを知る心を持ちなさい、といった教えです。ところが、そんなことを言っていると、経済発展ができません。資本主義社会は、みんな欲をふくらませて、じゃかすか浪費してくれることによって維持されるのです。だから、仏教に「少欲知足」なんて言ってもらっては困ります。
そこで一部の仏教者は、世の中の都合に合わせて、「もっとがんばれ!」「もっとやる気を起こせ!」と説きます。そんな欲望を助長しているのです。仏教の「少欲知足」の原現をご都合主義的に解釈しているのです。
わたしは、それは仏教の自殺行為だと思います。