天台宗について

法話集

No.164観想が大事

 護摩をたくなど、密教の作法をする行者は、身体でする所作や、口でとなえる真言に細心の注意をはらいますが、心の中に思い浮かべる意識を一番大切にします。これを観想(かんそう)と言い、行者は「今、自分は御本尊の不動明王様と一体なのだ」とか、「自分は大日如来様なのだ」などと観想しながら作法を続けます。「観想なき作法は児戯(じぎ)に等しい」と言われるほど、観想が大事とされます。

 さて、私は田舎にある檀家さん四十数軒の寺にお仕えする住職ですが、檀家さんの法事にうかがうと、お仏壇のお供えの仕方が色々で、それぞれの家のカラーがあります。たとえば、ある家では、お仏壇のろうそくに火が灯り、線香が立ち、焼香器の炭に火がついています。私が行けば、すぐに法事を始められるよう、準備万端ととのえて下さっています。別の家では、ろうそくや線香に火をつけず私の到着を待って下さっています。先のお家の人たちは私に親切にと考えておられ、後のお家の人たちは、和尚が火をつけた方がより功徳があると思っておられるのです。
 私の方から統一をお願いすることはありません。私がすることは、ろうそくに火がついていればその火を見つめ、火がついていなければライターを手に取り、そして延暦寺の根本中堂の内陣の様子を観想します。このお仏壇の火は、根本中堂で一二五〇年以上も灯り続けている「不滅の法灯」からお分けていただいた、と念じてからお経をはじめます。
 これは私の個人的な習慣で、天台宗の決まりではありません。よく考えてみれば、昔は火打ち石しかなくて、着火自体がちょっとした労働でした。天台宗の作法は手元に種火がある事を前提にしているように見受けられます。火は分火してくるのがほとんどで、火打ち石で点火する時にどう観想するか、という決まりは無かったのでしょう。それならば、現代のわれわれは、ライターで簡単に点火できることに感謝しつつ、「比叡山の不滅の法灯を想いつつ灯した火を御供えさせていただきます」と念じてはいかがでしょうか。

 ただ、このお話はうちの檀家さんには内緒です。
法事に行って、お仏壇の前に「火打ち石」が置いてあったら困りますので。 


(文・近畿教区 道成寺 小野 俊成)
掲載日:2017年11月01日

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