伝教大師 最澄

菩薩を育てる

(JR比叡山坂本駅前に立つ青年時代最澄銅像)(JR比叡山坂本駅前に立つ青年時代最澄銅像)

伝教大師のめざした仏教とは、どのようなものだったのでしょうか。

『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を読むと、伝教大師が“菩薩(ぼさつ)”たる人材を育てることを第一と考えていることがわかります。大師は、菩薩について「いやなことは自分で引き受け、よいことは他人に与え、自分自身のことは忘れて他の人を利益すること、それが究極(きゅうきょく)の慈悲(じひ)である」と述べています。慈悲の心のある菩薩の存在があってはじめて、世の中の人びとが平穏(へいおん)に生きられるのだと大師は考えていたのでしょう。

仏教の歴史はインドの釈尊(しゃくそん)より始まりますが、釈尊が亡くなって数百年がたった頃、インドでは大乗という新しい仏教が起こりました。大乗の教えはその後、中国、日本へと伝えられています。大乗仏教では、釈尊を理想的な人格者(じんかくしゃ)ととらえ、菩薩としての生き方が深く求められました。仏の教えをたよりに現実社会の中で実践につとめる人びとも「菩薩」と呼びます。伝教大師が菩薩となり得る人を育てたいと考えたことは、大師のめざした仏教が大乗にあったことを意味しています。伝教大師は日本を真の大乗仏教の国にしようという意志をもっていたのではないでしょうか。

法華一乗(ほっけいちじょう)の教え

得度授戒会得度授戒会

大乗仏教にもさまざまな教えがあります。そのなかで伝教大師がよりどころとしたのは『法華経(ほけきょう)』の教えでした。

『法華経』は、数ある経典の中でも特に多くの信仰を集めたことで知られています。『法華経』は古くから中国や日本にも伝来し、東アジアに住む人びとを魅了(みりょう)してきました。この経典の魅力(みりょく)は宗教性や文学性に富(と)んでいるところにあるといえるでしょう。親しみやすい譬喩(ひゆ)表現、ドラマチックな叙述(じょじゅつ)など『法華経』を読んでいると、いつのまにか経典の世界に引き込まれていくような感があります。

重文 紺紙金銀交書法華経(延暦寺蔵)重文 紺紙金銀交書法華経(延暦寺蔵)

『法華経』は、誰もがみな菩薩であり、将来、仏となることができる、と説くことにその特徴があります。つまり、どのような人であっても釈尊のような生き方をすることが可能であると説いているのです。この教えを『法華経』では“一乗”といいます。

伝教大師は青年時代に師僧の行表さまから「心を一乗に帰すべし」という教えを伝えられていました。また大師のご遺言には「私はいくたびもこの国に生まれ変わって、仏教を学び、一乗の教えを弘めようと思う」ということばもあります。つまり、『法華経』に説く一乗の教えを実現することが大師にとって一生涯をかけたテーマだったのです。

天台仏教との出会い

天台山図(延暦寺蔵)天台山図(延暦寺蔵)

伝教大師が学問と修行に励んでいた若い頃、大師は『法華経』を中心とする中国天台宗の教えに出会いました。伝教大師より二百年以上前に中国では天台大師が登場し、以来、天台宗の教えが受け継がれていました。天台大師は『法華経』をよりどころに釈尊以来の教えをまとめあげた人物でありました。仏教にはあまたの教えがありますが、それぞれに価値があることを天台大師は主張しました。これも『法華経』に説く一乗というスケールの大きな教えにもとづいているのです。

伝教大師の入唐の目的は、中国の天台宗の教えを日本に伝えることでありました。異国で学んだ大師は、そこで吸収した教えの数々をひとそろえに日本に伝え、比叡山の地に『法華経』を中心とする日本天台仏教のいしずえをつくりあげたのです。

天台大師の教えに象徴されるように、天台宗は種々の教えを含むことに宗派としての特色があります。まるで色とりどりの花が咲くかのように、伝教大師以降の比叡山には『法華経』の教え、「南無阿弥陀仏」の念仏、護摩などの密教修法、坐禅をはじめとする修行など、あらゆる仏教が花開きました。比叡山を「日本仏教の母山」といい、各宗派の祖師たちがその比叡山で学んでいたことはけっして偶然ではないのです。

仏と“私”との因縁(いんねん)

ところで、『法華経』は何を根拠(こんきょ)に、誰もがみな仏となることができると説いたのでしょうか。

『法華経』には、「仏たちは“一大事因縁(いちだいじいんねん)”のためにこの世に出現した。一大事因縁とは、すべての人びとを仏の智慧(ちえ)に導くことである」と述べられています。つまり、一乗の根拠は、私たち誰もが仏と不可思議な因縁によって結ばれているということなのです。また『法華経』は、時間や空間をこえてつねに仏が私たちに教えを説き続けていると説きます。いつでも、どこにあっても“私”は仏との因縁をもち続けていることになります。

比叡山宗教サミット30周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」比叡山宗教サミット30周年記念
「世界宗教者平和の祈りの集い」

私たちは実にありがたいことに人という尊い存在として生まれてきました。そのような因縁なくして私たちが仏の教えを聞くことはありえません。いかにして私たちは人間としての一生を全(まっと)うすればよいのか、それが釈尊以来の仏教においていちばん大切なテーマです。『法華経』はそのことを仏と“私”との因縁という形で説きました。

現代に生きる私たちにとってみれば、釈尊も伝教大師も過去に生きた人に映り見えるかもしれません。しかし、その私たちも実は仏との因縁を結びながら生きています。けっして無関係ではないのです。仏教の教え、そして伝教大師の教えは、はてしない時空(じくう)を超(こ)えて“私”のこころにその生き方を問いかけているのではないでしょうか。

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