慈覚大師 円仁

慈覚大師 円仁

紫雲たなびき誕生

  • 慈覚大師ゆかりの壬生寺本堂(栃木県・壬生町)慈覚大師ゆかりの壬生寺本堂(栃木県・壬生町)
  • 大慈寺の相輪橖(栃木県・岩舟町)大慈寺の相輪橖
    (栃木県・岩舟町)

円仁は延暦(えんりゃく)十三年(794)、今の栃木県下都賀郡内(とちぎけんしもつがぐんない)で壬生(みぶ)氏の次男に生まれました。奇(く)しくも生まれた年は桓武(かんむ)天皇が長岡京(ながおかきょう)から、都を京にお移しになった年でもありました。誕生したとき、生家(せいか)には紫雲(しうん)がたなびいたと伝えられます。しかも、桓武天皇が比叡山(ひえいざん)の根本中堂(こんぽんちゅうどう)で初めて法要を営み、平安時代が幕を開けたのもこの年でした。後の円仁と比叡山との深い縁(えにし)を想(おも)うとき、円仁は早くから高僧を約束されているような人でもありました。早くに父を亡くし、母と兄に育てられた円仁は九歳のとき、栃木県の名刹(めいさつ)大慈寺(だいじじ)の高名な広智(こうち)という僧に預けられます。

最澄を師に修行

根本如法塔(延暦寺・横川)根本如法塔(延暦寺・横川)

円仁十五歳の大同(だいどう)三年(808)、広智に連れられ比叡山に登ります。そこには天台宗を開いて五年目の最澄(さいちょう)がおられ、円仁をその弟子(でし)にしてもらうためでした。そのとき円仁は不思議なことに、夢の中でお会いした最澄が目の前におられるので、大いに驚いたそうです。最澄のもとで円仁は、厳しい指導を受けて修行(しゅぎょう)に励み、二十一歳で得度(とくど)。その二年後、奈良・東大寺(とうだいじ)で具足戒(ぐそくかい)を受戒(じゅかい)し、一人前の僧侶(そうりょ)になりました。

受戒の翌年、二十四歳のときに円仁は最澄とともに関東へ布教(ふきょう)の旅に出て、ゆかりの大慈寺では、円仁は宗祖から潅頂(かんじょう)と円頓戒(えんどんかい)を授かりました。

二十九歳のとき、最澄は一心三観(いっしんさんがん)の妙義(みょうぎ)を円仁だけに伝え入滅(にゅうめつ)。円仁はその妙義を胸に三十歳で止観業(しかんごう)の年分度者(ねんぶんどしゃ)として十二年籠山(ろうざん)に入り、一行三昧(いちぎょうざんまい)を修練(しゅうれん)する日々を送りました。

東北巡礼と布教

聖観音菩薩像(横川中堂本尊)重要文化財聖観音菩薩像(横川中堂本尊)
重要文化財

籠山六年目のとき、学問僧としても抜きん出た円仁は、先輩や後輩のたっての願いもあり、比叡山を出て布教活動に入ります。

法隆寺(ほうりゅうじ)や四天王寺(してんのうじ)で法華経(ほけきょう)を講義(こうぎ)し、次いで最澄との約束でもあった東北地方へ出かけます。「法華経」や天台宗を広めるのが大きな目的です。東山道から故郷の栃木、青森から岩手方面にも及びました。

二年後に比叡山に戻った後も地方に足を運び、その布教活動は全国に及び、現存の由緒寺院は六百カ寺以上を数えています。

最澄の目指した比叡山仏教を受け継ぎ、それを全国に布教した信念と情熱の人・円仁は、誰にも好かれる実に誠実温厚(せいじつおんこう)な人だったそうです。

写経の功徳で治癒

円仁が五臺山金閣寺で出会った経典・紺紙金銀字交書法華経 重要文化財円仁が五臺山金閣寺で出会った経典
紺紙金銀字交書法華経 重要文化財

円仁が布教活動から比叡山に戻った四十歳のころ、重い病気にかかり横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に籠(こ)もり、死をも覚悟していました。そのとき最澄が念願(ねんがん)された如法経(にょほうきょう)(法華経の写経)を神仏(しんぶつ)に祈りつつ、六千部を目標に行いました。これこそが如法写経(にょほうしゃきょう)の始まりなのです。写経は古来(こらい)、経典(きょうてん)の持つ不思議な力を授かる、仏教徒にとって尊(とうと)い修行なのです。

その功徳(くどく)があったのか円仁は、ここでも夢を見て、天から与えられた妙薬(みょうやく)で元気を取り戻します。後にこの写経を宝塔(ほうとう)に納め本尊(ほんぞん)として祀(まつ)り建立(こんりゅう)したのが、横川の根本如法堂(こんぽんにょほうどう)です。

苦難の入唐求法

慈覚大師在唐送進目録慈覚大師在唐送進目録

円仁は、病後に師最澄の夢を見ました。師は「天台教学(てんだいきょうがく)の心髄(しんずい)と密教(みっきょう)を伝えなさい」とお告げになりました。そして三年後の四十五歳のとき、求法僧(ぐほうそう)としての勅命(ちょくめい)が下り、円仁は遣唐使(けんとうし)の一員になりました。

しかし、希望する天台山(てんだいさん)行きの許可が下(お)りず、円仁は長安(ちょうあん)を目指す遣唐使の一行と別れ、秘(ひそ)かに求法の旅を決意し、弟子二人と聖地五臺山(ごだいさん)を巡礼。その後、長安に入り金剛界(こんごうかい)、胎蔵界(たいぞうかい)などを受法。併(あわ)せて新しい仏典(ぶってん)、曼荼羅(まんだら)を求得(ぐとく)して帰国に備えました。ところが唐では、武帝(ぶてい)の仏教弾圧(だんあつ)(会昌(かいしょう)の破仏(はぶつ))が始まりました。

「仏教の僧尼はすべて還俗(げんぞく)せよ、寺院・仏像・経巻はすべて焼き払え」という勅命が下されます。円仁も恐るべき惨状を目の当たりにし、危険な状況にも遭遇しますが、時を経て必死に守り抜いた仏教書を携え、ようやく長安を離れ、帰国船を得て九州・太宰府(だざいふ)に着いたのでした。

数万人に結縁潅頂、菩薩戒

慈覚大師画像慈覚大師画像

比叡山に戻ると皆、感涙(かんるい)にむせんで円仁を迎えました。

持ち帰った経典は五八四部八〇二巻に及び、金剛(こんごう)、胎蔵界(たいぞうかい)の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)などの図像法具(ずぞうほうぐ)は二一種もあったそうです。仁明(にんみょう)天皇はこの功績(こうせき)をお喜びになり、円仁を「伝燈大法師位(でんとうだいほっし)」に、さらに「内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)」に任命されました。その後、十七年半、空位(くうい)であった天台座主(てんだいざす)に任命されます。これは勅旨(ちょくし)による初の座主任命(ざすにんめい)でした。

第三世天台座主に就くや円仁は、結縁潅頂(けちえんかんじょう)や菩薩戒(ぼさつかい)を天皇、皇族(こうぞく)だけでなくあらゆる人々に授(さず)け、その数は数万人に及びました。最澄滅後、その志を継ぎ天台宗をあまねく広めた円仁の生涯(しょうがい)は、貞観(じょうがん)六年(864)一月に七十一歳で閉じられました。

そして没後(ぼつご)二年、その死を悼(いた)んだ清和(せいわ)天皇により最澄に伝教大師(でんぎょうだいし)、円仁には慈覚大師(じかくだいし)という、ともに日本で初めての大師号(だいしごう)が贈られました。

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