伝教大師 最澄

伝教大師

誕生の年時

『伝教大師和讃』によれば、大師の誕生年時について「神護景雲元年(767)八月十有八日」と詠まれていますが、これは大師入滅の弘仁十三年(822)六月四日を五十六歳とする一乗忠撰『叡山大師伝』(石山寺古写本)に基づいたものであります。

ところが、大師の得度、受戒に関する公式文書『伝教大師度縁(どえん)案並僧綱牒(そうごうちょう)』(国宝、京都来迎院蔵)により、近年767年より一年早い天平神護二年(766)の誕生とする説が有力視されています。

しかし今回の御生誕法要は、古来から比叡山で伝承されている767年説によって昭和四十一年(1966)に行われた前回の御生誕一千二百年慶讃大法要に倣(なら)い、その五十年後に当る平成二十八年(2016)に執行することになりました。

  • 『叡山大師伝』石山寺本(大津・石山寺蔵)『叡山大師伝』石山寺本(大津・石山寺蔵)
  • 『伝教大師度縁案並僧綱牒』(京都・来迎院蔵)『伝教大師度縁案並僧綱牒』(京都・来迎院蔵)
  • 『伝教大師絵伝』誕生の図(延暦寺蔵)『伝教大師絵伝』誕生の図(延暦寺蔵)

誕生地とその遺跡

生源寺(大津市坂本6丁目1-17)生源寺(大津市坂本6丁目1-17)

最澄さまの戸籍は「近江国滋賀郡古市郷(ふるちごう)」とあり、現在の大津市膳所、石山あたりといわれていますが、誕生の地は大友郷(おおともごう)(大津市坂本)の生源寺(しょうげんじ)と伝えています。そのことは誕生に関わる旧跡がすべて坂本に集中していることからも知られます。

誕生地「生源寺」には産湯に使った井戸があり、そこはもと大師の父百枝(ももえ)公の私宅であったと伝えています。また日吉馬場には大師の胞え衣なを納める「幸塚(さいわいづか)」(または和産塚ともエナ塚ともいう)や、産湯の釜を埋めたという「石櫃(いしびつ)」などの遺跡もあります。さらに大師誕生の時、蓮華の花が天から降ったという奇瑞により、生源寺付近には「蓮華園(れんげそ)」の地名も今に伝えています。

  • 産湯の井戸(生源寺境内)産湯の井戸(生源寺境内)
  • 幸塚(比叡山中学校前)幸塚(比叡山中学校前)
  • 石櫃(大津市坂本3丁目)石櫃(大津市坂本3丁目)

大師のご両親

  • 『叡山大師伝』石山寺本(大津・石山寺蔵)『叡山大師伝』
    石山寺本(大津・石山寺蔵)
  • 『伝教大師度縁案並僧綱牒』(京都・来迎院蔵)『伝教大師度縁案並僧綱牒』
    (京都・来迎院蔵)

父は百枝(ももえ)と申され、先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)(AD190~220)の子孫登万貴王(とうまんきおう)と伝え、応神(おうじん)天皇(AD270~310)の頃、日本に帰化して近江国滋賀の地を賜り、三津首(みつのおびと)の姓を頂かれたと伝えています。

母は中務少輔藤原鷲取朝臣(ふじわらのわしとりあそん)の娘で、藤原藤子(とうし)と申されましたが、大師の生誕を賀して妙徳(みょうとく)夫人と名を改められました。京都市右京区山ノ内宮前町の「念仏寺」には妙徳夫人の墓があり、夫人の実家と伝承しています。また妙徳夫人は比叡山で修行されている大師を見舞い励ます為、清浄な修行地の手前にある「花摘堂(はなつみどう)」(表参道東坂の中間にある)まで足を延ばされたと伝えています。


神宮禅院(じんぐうぜんいん)での祈り

八王子山(日吉大社参道 求法寺前より望む)八王子山(日吉大社参道 求法寺前より望む)

当初ご両親には子がなかったので、比叡山の地主神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」の坐(ま)します八王子山(はちおうじやま)(神宮)に登り、男子の誕生を祈って七日間を期して懺悔(さんげ)の修行をされました。すると四日目の早朝に好(よ)き夢(好相(こうそう))を見て授かったのが最澄さまだったのです。

つまり大師は日吉山王(ひよしさんのう)の申し子であり、大師も父が誕生を祈った悔過(けか)修行の期日の不足を補って、その地で懺悔の修行を行い仏舎利(ぶっしゃり)を感得されたと伝えています。現在もこの地は「神宮禅院(じんぐうぜんいん)」旧跡として知られています。

  • 神宮禅院跡(八王子山内)神宮禅院跡(八王子山内)
  • 百枝社 父 百枝を祀る神社(大津市坂本6丁目)百枝社 父 百枝を祀る神社(大津市坂本6丁目)
  • 市殿神社 母 妙徳を祀る神社(生源寺北側)市殿神社 母 妙徳を祀る神社(生源寺北側)

僧侶への道のり

大師幼少の名は「廣野(ひろの)」と申され、七歳には学に抜きん出て仏道を志し、村里の小学では師範といわれるほどでありました。その後、十二歳には、近江の大国師(だいこくし)であった大安寺行表(ぎょうひょう)の弟子となって出家修学し、十五歳にして近江国分寺の僧として行表のもとで得度、「最澄」の名を頂かれ、さらに二十歳には、南都東大寺戒壇院にて具足戒(ぐそくかい)を受けて正式の僧侶としての道を踏み出されることとなりました。

その後、伝教大師は奈良仏教を離れて比叡山に登り、「比叡山寺(後の延暦寺)の開創」「中国への入唐求法」「日本天台宗の開宗」「南都徳一(とくいち)との仏性論争」「大乗戒壇の建立」など、円(法華)・密(真言密教)・禅(達磨禅)・戒(大乗菩薩戒)の四宗融合を立場とする天台仏教の根本義を確立されていくのであります。

以上、ここでは、御生誕に関する紹介といたします。

  • 『伝教大師絵伝』得度の図(延暦寺蔵)『伝教大師絵伝』得度の図(延暦寺蔵)
  • 『伝教大師絵伝』幼形の図(延暦寺蔵)『伝教大師絵伝』幼形の図(延暦寺蔵)

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