建立大師 相応

相応和尚

出自と得度

  • 明王堂(比叡山・無動寺谷)明王堂(比叡山・無動寺谷)
  • 相応和尚の師、慈覚大師円仁(延暦寺蔵)相応和尚の師、慈覚大師円仁(延暦寺蔵)

相応和尚(そうおうかしょう)は近江国浅井郡の出身で、孝昭天皇の第一皇子天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫と伝えています。十五歳の時、鎮操(ちんそう)大徳に随って比叡山に登り十七歳で剃髪(ていはつ)し沙弥(しゃみ)となられました。その後、法華経常不軽(じょうふぎょう)品によって大菩提心(だいぼだいしん)を発(おこし)し、六、七年間一日も欠かさず根本中堂に花を供え続けていました。その信心堅固な青年僧を見いだし、年分度者(ねんぶんどしゃ)として得度(とくど)せしめたのは慈覚大師円仁大徳でした。大師は大納言藤原良相(よしみ)からの度者の推薦依頼もあり、良相の一字を取って「相応(そうおう)」と名付けられました。

北嶺回峯行の創始者

比叡山の回峯行比叡山の回峯行

比叡山の回峯行は、役小角(えんのおづぬ)を開祖とする南山(なんざん)修験に対して、北嶺(ほくれい)修験ともいわれ、古来、相応和尚をその創始者と仰いでいます。そこで創始者たる所以(ゆえん)を明らかにしてみましょう。

【1】法華経常不軽菩薩の行

北嶺回峯行の行体ともいうべき根本理念は、いかなるものにも仏の姿を見い出して礼拝し続ける「ただ礼拝のみを行ず」(但行礼拝(たんぎょうらいはい))という常不軽菩薩の誓願にあります。それは相応和尚が常不軽菩薩の教えにより仏の悟りをめざす「大菩提心」を発し、生涯「不軽の行」を実践することを誓われたことに由来します。

【2】供花

回峯行中において旧暦の四月十五日から九十日間、毎日出峯時に供花(くげ)作法を修し、比叡山中を歩くすべての行程で礼拝する二百六十余ヵ所すべてに花(樒(しきみ)の葉)を供えることになっています。これは、相応和尚が得度の前に毎日根本中堂へ供花を行じ続けること六、七年に及び、一日も欠かさなかったという故事によるものです。

【3】不動明王の信仰

相応は籠山中に師の慈覚大師から不動明王法(ふどうみょうおうほう)並びに別尊儀軌(べっそんぎき)、護摩法(ごまほう)などの伝授を受け、薬師如来の示現に従って叡南(えなみ)(無動寺谷)に草庵をかまえて苦修練行されました。その後、比良山の葛川(かつらかわ)に参籠(さんろう)し、生身の不動明王を感得したことにより叡南に無動寺明王堂を創建して不動明王を本尊とし、行者が生身不動明王となる為の回峯行根本道場となりました。

【4】葛川参籠

葛川参籠葛川参籠

回峯行で行われる葛川参籠(かつらかわさんろう)は、単に地主神志古淵(しこふち)大明神へのお経等による供養(法楽(ほうらく))のための安居(あんご)というだけではなく、貞観元年(859)二十九歳の時から三年間穀類を断ち塩を断って、葛川の清水に身を清め、葛川十九瀧において生身の不動明王を感得されたという相応和尚の葛川安居を起源としています。

【5】山王信仰

相応和尚は仁和三年(887)、山王大宮社殿(さんのうおおみやしゃでん)(大比叡(おおびえい)明神)前に仏舎利塔一基を建立して法華経を納めたり、山王二宮(小比叡(おびえ)明神)の宝殿を造立されました。また寛平二年(890)には大宮の託宣により宝殿を建立されるなど、山王への深い敬慕の念は、回峯行の日吉山王社への巡礼や行法に脈々と受け継がれています。

【6】加持祈祷

護摩供修法(無動寺谷護摩堂)護摩供修法(無動寺谷護摩堂)

相応和尚は、貞観三年(861)及び同四年(862)の清和(せいわ)天皇、寛平二年(890)の宇多(うだ)天皇、延喜三年(903)の醍醐(だいご)天皇などの勅命により、宮中内裏に参入(さんにゅう)して天皇の病気や諸願成就を祈って玉体加持(ぎょくたいかじ)を修されました。その他にも皇后や大臣、女御(にょご)などの加持祈祷(かじきとう)にも度々召し出され、見事な霊験(れいけん)を示されたと伝えています。

千日回峯行を満行した代々の大行満(だいぎょうまん)は、相応和尚の参内加持(さんだいかじ)に倣(なら)い、綸旨(りんじ)により宮中での土足参内(どそくさんだい)を奉修しています。

  • 不動明王の信仰不動明王の信仰
  • 日吉山王社を巡礼する回峯行者(山王鳥居にて)日吉山王社を巡礼する回峯行者(山王鳥居にて)
  • 土足参内(京都御所)土足参内(京都御所)

伝教・慈覚両大師号の奏請と入滅

相応廟(比叡山・無動寺谷)相応廟(比叡山・無動寺谷)

貞観八年(866)七月十四日、最澄・円仁の両師に伝教・慈覚両大師の諡号(しごう)を清和天皇から賜ったのは、相応和尚の奏請によるものであり、日本で最初の大師号となりました。

相応和尚は延喜十八年(918)十一月三日の夜半、無動寺谷の十妙院にて阿弥陀仏の名号を唱えつつ八十八歳で入滅されました。

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