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サミットの歴史

比叡山宗教サミット17周年− 概要

(広報天台宗 第25号)

比叡山宗教サミット17周年『世界平和祈りの集い』

 世界の宗教者指導者が教宗派を超えて一同に会し、共に平和のための祈りを捧げてきた「比叡山宗教サミット」から17年が過ぎたが、世界は依然として混乱の中にあり、イラクの戦乱は収まらず、長年の戦闘状態の続く中東では、憎悪の連鎖による殺戮が一層激しく繰り返されている。
 8月4日、今年も比叡山上で、また全国の寺院で平和を願う鐘の音が響いた。そして世界の宗教者が集い、恒久平和実現のため祈りを捧げた。
 今回の「比叡山宗教サミット17周年『世界平和祈りの集い』」には、一隅を照らす会館前を会場に、国内の教宗派代表をはじめ、宗内の寺院住職や役職員、「天台青少年比叡山の集い」に参加の青少年など約700名が参加。スーダン共和国大使館特命全権大使のムサM・オマールサイード氏も参加し、世界平和のために共に捧げた。
 式典は、午後3時に西郊良光天台宗宗務総長の挨拶で開会、続いて会場を埋め尽くす参加者の中を「天台青少年比叡山の集い」に参加している青少年が入場。特設舞台中央に設けられたパネルから、国旗をはがすというイベントの主要な役割を担った。パネルから世界各国の国旗が取り除かれると、下から世界の人々が輪になって手をつなぎ、オリーブの芽を守り育てているメインパネルが出現した。オリーブは「平和」の花言葉をもっており、今回のサミットを象徴する花である。そして、青少年達は、取り除いた国旗を、今度は、メインパネルの左右に自由に並べて、世界の国々には序列も、区別もないという世界を表現した。
 その後、渡邊惠進天台座主猊下を導師に仰いで、延暦寺一山住職出仕のもと法楽が厳修され、続いて渡邊座主猊下により「平和祈願文」が奉読された。祈願文の中で渡邊座主猊下は「神仏を殺戮の正当性につかった戦争は、必ず人類を憎悪の連鎖へと追い込んでゆくでありましょう。私たちは、武力行使やテロにより目的を達しようとする政治指導者と宗教指導者に、ただちにその愚かしい行為を停止するように呼びかけ、そして、同じテーブルについて話し合うことを求めたいと思います。そのために、本日皆様方と共に真摯な祈りを捧げたい」と話された。
 午後3時30分、国内の教宗派の代表者や海外からの来賓など16名が登壇し、比叡山をはじめ、日本国中で「平和の鐘」の音色が響く中、参加者全員が平和への祈りを捧げた。
 式典はその後、「比叡山メッセージ」の朗読、法相宗管長薬師寺管主安田暎胤師による「平和を語る」と題した記念講演が行われ、引き続き青少年代表による「平和の合い言葉」(世界の人々と仲良くしよう・尊い命を大切にしよう・自然の恵みに感謝しよう)が唱和され、森定慈芳延暦寺執行の閉会の辞で幕を閉じた。


▲ 天台青少年比叡山の集い研修生による
献華と国旗設置


17周年記念式典 8月4日(水)
15:00
開式の辞
天台宗宗務総長 西郊良光
天台青少年比叡山の集い研修生による献華と国旗設置
  法楽
開経偈・般若心経・回向文


15:30
平和祈願文
第二五五世天台座主 渡邊惠進 猊下
平和の祈り(全員起立・黙祷1分間)
  比叡山メッセージ朗読
「平和を語る」
法相宗管長 薬師寺管主 安田暎胤 師

15:55
『平和の合い言葉』唱和
閉会の辞
延暦寺執行 森定慈芳

比叡山宗教サミット17周年 世界平和祈りの集い「平和を語る」
法相宗管長 薬師寺管主 安田暎胤

 ちょうど今から60年前の昭和19年、私の父は西部ニューギニア、今日のインドネシアで戦死しました。激しい戦闘の末ではなく、マラリヤによる戦病死との報せでしたが、実際は極度の飢餓状態における餓死であったようです。聞くところによると、雨のように降る爆弾によって戦死した人、そうした無残な死を遂げた兵士たちの姿を見て精神異常になって死んだ人、生還者の中には、死んだ人の肉ではなく、死を直前にした戦友の肉を食べた人もあったようです。
 第二次世界大戦による犠牲者は、戦地で戦った兵士だけではありません。日本全土で爆撃を受けた人々や家族を亡くした人。また日本軍によって戦場となったアジア諸国の人々、さらには日本と戦った連合軍の兵士とその家族です。戦争による後遺症は長く続き、60年経った今日でも、広島や長崎の被爆者の方々をはじめ多く苦しんでおられます。
 20世紀には大きな二つの世界大戦と、約250もの戦争がありました。それにより約2億人の尊い生命が奪われ、自然環境や社会環境も破壊されました。また貴重な多くの文化遺産も消失しました。残されたものは憎悪と貧困と肉体的な苦しみと廃墟などです。平和な時代は、一人でも人を殺せば犯罪者として罰せられますが、戦時中ならば多くの人を殺し、建物を破壊して手柄になるのです。戦争ほど愚行で、野蛮で、無益で、残酷で被害の莫大なものはありません。
 その辛酸を味わった日本は、平和の構築のために武力を用いないことを憲法で制定し不戦を誓いました。そして戦後はひたすら経済に力を入れて懸命に働きました。そのため経済は高度に成長し、文明は急激に進歩して物質的に恵まれた国になりました。
 しかしその日本で今日、年に三万数千人もの人が自から命を落としています。その数は交通事故で亡くなる人の3倍以上です。交通事故による死亡者が増えて交通戦争といわれましたが、生き甲斐を無くして自殺する人の多い今日の日本は、精神戦争の時代とでもいうべきでしょう。
 また子供を育てるべき親が子供を虐待し、挙句の果に殺してしまう。あるいは幼い子供が、些細なことで親しかった友人を殺すという異常な時代になりました。いずれも生命を軽んずる点においては戦争と同じです。物の豊かさを追い求め、物質文明の進歩には成功しましたが、調和の心が追いつけず、かえって不幸を招いているのも現実です。
 人類における平和な世界とは、世界中の人々が互いに助け合い、武力をもって争わず、物心両面が豊かで不平や不満を抱かず、生き甲斐をもった生活がなされている社会ではないかと思います。ところがそうした社会は、人類史上で実現されていないのです。したがって人の中には「所詮、人間は不完全なもの、平和を実現しようなんて願うのは空想論である」と冷笑される方もあります。
 たとえそれが空想論と揶揄されようとも、宗教者は平和実現や理想の追求を諦めてはなりません。悪人を善人に、穢れた社会を浄らかに、不完全な現実を理想に近づける、闇夜を航行する船が灯台を頼りとするように、混沌とする世に、人々の行くべき方向を示すことが宗教者の役割だと思います。しかしその宗教が、戦争や世の混乱の火種になっているように誤解されているところもあります。宗教は信仰によって強い信念が養われますが、ともすれば排他的になる面もあります。また結束力が強く、それが政治に利用されやすい面もあります。もし宗教の名において戦争が行われているとするならば、それは正しい信仰がなされていない証拠です。
 私は10年ほど前から、「世界宗教者平和会議」という団体の一員に所属し、異なる宗教の方々との出会いを得るようになりました。おかげで僅かではありますが、各宗教の共通性や違いを学び、認識を新たにしました。そこで知ったことは、どんな宗教も人間が人間として生きていく上における共通の持つべき教えがあることです。たとえば
 無辜の人を殺さず、人を生かし、人のために生きること
 他人の財産を奪わず、貧しい人に物を与えること
 嘘を言わず、真実を語ること
 夫婦は不倫を犯さず、愛し合うこと
など、争いの原因を避け、平和を目指していることは皆同じです。ただそうすることが良いとは分かってはいても、現実には自己中心的なエゴの欲望が働いてしまうのです。そこに平和実現の難しい問題があると思うのです。誰もが持っているエゴの心を、如何に浄化し慈愛の心に転換するかが宗教の果たす役割だと思います。その方法として自分の行動をよく反省し、犯した過ちを懺悔するのです。しかしまたすぐにエゴの心が湧いてきます。そこでまた懺悔をするのです。そうした懺悔を幾度も繰り返すことによって人の心は浄化され、慈愛の心に変わっていくと思うのです。
 信ずる神や仏の名前は違っても、教えの内容は共通点が多いのです。それは人間の心の働きが同じだからです。言葉や伝統や習慣が異なるため、精神構造までも違うように思われ勝ちですが、大きな違いはないと思っています。それはあたかも、音楽や絵画などの芸術は、言葉を用いずに感動や癒しを得ることができるようなものです。
 1000年以上も継承され、人種や国を越えて伝わった宗教には、時間と空間を越えた永遠性と普遍性があります。それぞれが真理を語り、人の心に感動や癒しを与えてきたものです。したがって宗教者は、各々の宗教に基づく正しい信仰に裏付けられた人間として、社会に貢献しなければならないと思います。そして自分の所属する宗教や宗派の布教のみならず、世界の平和に向けての宗教者間の対話が必要だと思います。お互いが他の宗教を理解すれば、対立がなくなり友情が生まれます。
 その意味で日本仏教の多くの宗派の祖師方が修行された、この聖のお山である比叡山で、各宗教の代表者が集てって平和を祈りながら対話することは、まことに意義深いものがあります。今日のこの集いに参列された方々の平和の祈りが、必ず今なお紛争している国の人々に通じ、1日も早く平和が訪れることを信じ、神仏のご加護を仰ぎ心の底から祈念致しましょう。

教皇庁諸宗教対話評議会 2004年7月21日
比叡山宗教サミット(世界平和祈祷集会)17周年にあたってのメッセージ
教皇庁諸宗教対話評議会議長 マイケル・ルイス・フィッツジェラルド大司教

 8月4日、比叡山で行なわれる比叡山宗教サミット17周年「世界平和祈りの集い」にお集まりになった皆様にメッセージをお送りできることは慶賀の至りです。1987年に天台座主 山田恵諦猊下が、平和を求める祈りの集いを始められてから、17年になります。それは教皇ヨハネ・パウロ二世の呼びかけによりイタリアのアッシジで開かれた同様の集いに山田座主が参加された翌年のことでありました。日本の天台宗指導者の皆様が、こんなにも長い間、この祈りの集いに毎年係わってこられたお姿を目の当たりにし、敬服の至りに存じます。私は、世界の平和と調和のために堅実に努力されている天台宗の皆様に対し、こころから感謝の念を表します。
 私たちは、現在、迅速な意思疎通と人びとの移動、そして相互依存を特徴とする世界に住んでいます。私たちは、それらの特徴とともに、人間のさまざまな側面における多様性の実情に気づいています。移住、旅行、広報、個人的な選択などのおかげで、他の民族や文化、宗教体系にある人びとと容易に出会い、共存できることもしばしばです。
 私たちの時代の、こうした世界的な状況に鑑みて、皆様が今年の集いのテーマに選んだ「共生」は、大変現実的で重要なものです。真の共生を作り上げるために最善を尽くすことは私たちの共通の責務です。共生とは、あらゆる偏見、緊張、ゲットーの精神性が克服され、民族的、文化的、宗教的な少数者が社会の枠組みの中に受け容れられるものです。他の人びとの信念、価値観、習慣を理解すると同時に、私たち自身のものを説明できるようにしておくことも必要です。それらを推し進めていくことはきわめて重要であり、有効です。宗教的原理主義の教えによって伝播され、国家主義によって誇張された不寛容と狂信という、前者と反対の傾向が、真の共生をいっそう困難にしている今日の背景があるからです。
 親愛なる友人のみなさん、私たちは、それぞれの宗教のもっとも忠実な信者として、日々の生活の中で、この共生の精神を生きるよう召されています。生きる場、働く場であるすべての環境に、この精神を根付かせねばなりません。異なる民族、文化、宗教の中でより深く相互に理解し、人びとを尊重することを決意したのですから、希望に満ちた未来を期待しましょう。それは、よりいっそうの調和と、より深い永続的な平和をもつ世界に私たちを導くのです。
 教皇庁諸宗教対話評議会を代表して、地球共同体の平和と調和を願う一人ひとりの祈りに、私の祈りを重ねることをお約束いたします。

感謝のうちに


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