天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第11号

命すべてに極楽往生を願う
ペットはモノだから供養に課税?

[心のケアは宗教行為]

 日本で、犬や猫などのペットを飼育しているのは千九百万世帯という。可愛がっていたペットが死んだ時の、飼い主の精神的なストレス、いわゆる「ペットロス」は社会的問題になってきている。ペットは、飼い主にとって大切な家族の一員であり、心の拠り所である。

 仏教、特に天台宗では、命あるものはすべて成仏すると教え、それゆえに命の大切さを説いている。それは、動物ばかりではなく、草や木という植物や、宇宙の森羅万象、命あるものすべてである。
 それゆえ、飼い主から求められれば、供養をし、納骨を引き受けている寺院も多い。
 ところが、このほど税務当局が「ペットはモノで、読経や納骨などは、宗教行為ではなく、課税対象」としたところから、法廷での宗教論争に発展しそうな気配である。
 「成仏させ、飼い主の悲しみを癒すのは人の供養と同じ」と主張するのは、愛知県春日井市の慈妙院・渡辺円猛住職。
 この問題に対して天台宗の工藤秀和総務部長は「施主は、ペットを家族の一員と考えていればこそ、法要と供養を依頼する。ペットの極楽往生を願うがゆえであり、法要と供養を始め埋葬にいたるまで、寺院の行為は、当然宗教行為以外の何ものでもない。葬儀供養により、飼い主の深い喪失感を癒し、安心を与える。このことが、宗教的行為でなければ、何が癒しを与え、安心を与えているのか全く説明がつかない。寺院ばかりでなく、施主(家族)に対する冒涜であると思われる」との立場を示し、また全日本仏教会も「仏教は『一切衆生悉有仏性』と、生きとし生けるものはみな成仏するという思想の上に立っており、その全てはそれぞれ支えあって生かされているいのち尊重の教えであります。このことからペットにおいても、深い宗教心をもって供養をおこなうもので、当然宗教行為と考える」と連携支援を打ち出した。
 一九九九年に改正された動物愛護管理法によれば、その二十七条の2項に「愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以上の懲役又は百万円以下の罰金に処する」とあり、同条3項には「愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめる事により衰弱させる等の虐待を行った者は、三十万円以下の罰金に処する」とある。この改正は、九七年に起こった少年A事件、いわゆる酒鬼薔薇聖斗が事件以前に行っていた動物虐待の事実をふまえている。
 すなわち、愛護動物の命の尊厳を国家が保障することにより、青少年の情操を保とうとする国の姿勢である。
 一方で、行政によって年間に殺処分される犬や猫は約五十万頭になる。飼い主の「もう面倒をみられない」という理由や、捨てられて野良となったペットたちは、各都道府県にあるセンターなどに送られ殺処分となる。
 憂うべきは、自分たちの都合で飼い、捨てる人間の身勝手さであろう。「ペットはモノ」という見解が、更に命の尊さを軽んずる風潮に拍車をかけるのではないかと憂慮する。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 目に見えるものでも
 見えないものでも
 遠くに住むものでも
 近くに住むものでも
 すでに生れたものでも
 これから生れようと欲するものでも
 一切の生きとし生けるものは
 幸せであれ

「ブッダのことば」岩波文庫

 みんなが幸せであって欲しい、このことがお釈迦様が目指された究極の道です。
 仏教の教えは、難しいと思っておられる方も多いのですが、示されてみると意外と簡単です。
 しかし、やはり難しい。
 生きとし生けるもの、みんなが幸せになるにはどうすればよいのか?そのことを求めて日々精進することは、並大抵ではありません。
 法華経の信者だった宮沢賢治は「この世のすべてのものが幸せに成らない限りは、自分の幸せというものはない」と言いましたが、他の人のことを優先的に考えるというのも、ひとつの方法でしょう。有名な「雨ニモマケズ」の中に「アラユルコトヲ ジブンヲカンヂャウニ入レズニ」とあるのは、天台宗の「忘己利他」の精神と同じです。
 まだ見ぬ命にも、自分が見えないものにも「幸せであれ」と祈ること、そうすれば、暖かい春の日のような気分になってきます。

鬼手仏心

水と義足   天台宗宗務総長 西郊良光

 あるチャリティ・コンサートに行った。
 義援金を受け取りに来られたユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが言った。
 「世界には、水が無くて死ぬ子どもたちがたくさんいる。殆どは発展途上の国で、その現実すら正確に伝わっていない。イラクも、衛生状態がきわめて悪い。汚れた川で生活水を摂るから伝染病で子どもたちが死んでいる。それは戦争で電気供給の施設を破壊され、水を濾過することができないからだ」。
 わずか数百円のお金で、ワクチンが買え、何人もの子どもたちが命を救われるのだという。世界は、軍備には、何億円もの巨費をつぎ込むが、貧しい国々が直面する死には無関心にしか見えない。
 それにしても、電気施設を破壊するということは、水をも止めることになるのだとは、生々しい証言だった。戦争のたびに繰り返される「民間人の攻撃は避ける」とは、詭弁であろう。戦争とは、かくも残酷なものだ。
 「地雷で足を失った子どもに、私たちが与えてあげる義足は、本当に粗末なものだ。それでも、彼らは『これで、また羊の世話が出来る』と喜んで山に帰ってゆく」と黒柳さんは言った。義足をもらった子どもの目は、希望に溢れている、とも言った。
 もちろん、天台宗も一隅を照らす運動総本部等を通じて、折に触れて国際的な援助活動は展開している。
 しかし、それとは別に粗末な義足をつけた少年の輝く目は、いつしか私達の心に巣くっている怠惰な思いを、鋭く撃つようでもある。

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