天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第239号

伝教大師のご遺戒を体し ー延暦寺年賀式ー

 令和5年延暦寺年賀式が1月8日、延暦寺会館で行われ宗内諸大徳や政財界から280名余りが出席。数え年で100歳を迎えられた大樹孝啓天台座主猊下にご挨拶を行い新年の門出を祝った。
 
 また比叡山から発信する今年の言葉「開発真心(かいほつしんしん)」が発表された。

 年賀式は午前11時に開式され、延暦寺一山住職出仕のもと大樹座主猊下を大導師に法楽を奉修。水尾寂芳延暦寺執行が大樹座主猊下に新年の挨拶を言上した。

 大樹座主猊下は〝お言葉”で、まずは昨年の傳燈相承式を振り返られ「座主としての務めを果たすことを宗祖大師にお誓い申し上げました」と述べられた。

 そして盛会裡に幕を閉じた特別展「最澄と天台宗のすべて」や比叡山宗教サミット35周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」など山上山下での諸行事への感想を語られた。

 また国内外で頻発する自然災害の多発や、戦争やテロ行為、コロナ禍について憂慮を示された上で「大きな気候変動とコロナ蔓延の最中に迎えた伝教大師一千二百年大遠忌ではありましたが、むしろ我々一人ひとりが為すべき事をじっくりと考える時間を与えてくださったようにも思います。

 最澄さまの『努(つと)めよ努(つと)めよ』とのご遺戒を体し、地球上のあらゆる命が生き生きと幸せに暮らせるよう共に祈りを捧げてまいりましょう」と、会場に呼び掛けられた。

 続いて阿部昌宏天台宗宗務総長、比叡山法灯護持会会長の鳥井信吾サントリーホールディングス株式会社副会長、加藤好文京阪ホールディングス株式会社会長、三日月大造滋賀県知事、馬渕直樹日吉大社宮司、全国国宝重要文化財所有者連盟理事長の落合偉洲久能山東照宮名誉宮司らが登壇して挨拶した。

 阿部宗務総長は「祖師先徳鑽仰大法会の集大成として3月16日に結願法要を予定している。各祖師方の御遺徳を改めて偲ぶ機会とし、宗祖伝教大師のみ教えを未来につないでいきたい」と述べた。

 さらに世相にも触れ「社会に満ち溢れた閉塞感や人心の闇を照らすには神仏の力をおいて他にはない。宗祖伝教大師の御誓願である法華一乗の社会、すなわち浄仏国土の実現に向け邁進してまいりたい」と決意を披露した。

 お互いの仏性を開き発(お)こそう

 新春恒例の「比叡山から発信する言葉」には、水尾延暦寺執行から『開発真心(かいほつしんしん)~真の心を開き発こす~』が発表された。

 「真心「まごころ」とは、嘘偽りの無い心。それは私たちの「真実の心」に他なりません。真心を込めれば必ず相手にも通じます。相手にも通ずるこころ、それは皆に具わっている「仏性」ほとけごころです。お互いの仏性を、開き発こして、目覚めさせましょう」と紹介している。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「功遂げ身退くは、天の道なり」 

老子

 この言葉通りに実行することは、とても克己心(こっきしん)のいることです。

 まだ力溢れる絶頂期にすっぱりと身を引くなどは、よほどの執着を離れた人でないとできない至難の業です。やっと築き上げた頂点は「まだまだ続くのだ」という思いを捨てきれないのです。

 物事というものは「全盛期にある時に既に衰退の兆しが芽吹いてくる」という考えは一理あると思います。ずっと先になって「ああ、あのときから既に坂道を下っていたのか」とつくづく思うことになるのです。
 
 なぜその時に身を退くことができなかったのか、ということでしょう。その結果は「晩節を汚す」ことになるのです。

 古今東西、その例は尋ねると枚挙に暇がありません。例えば、歴史的な偉業を成し遂げた偉人と称される人、豊臣秀吉とかナポレオン、毛沢東などいくつも挙げられます。

 この人たちの場合は、どこに過ちがあったか、といいますと、天下の政道を「私事」に偏らせたことでしょうか。まあ、歴史的に見てもほとんどの場合がそうともいえるのでは、と思います。
 
 表向きの看板は「民衆」「国民」「人民」の「為」でしょうが、内実は「私」の為なのではないでしょうか。
執着を持つのは権力だけではありません。

 この言葉の前で老子は、たとえ金や玉が堂を満たしてもこれをよく守りとおすことはできないことや、富貴(ふうき)にして驕(おご)り高(たか)ぶっていると自らにその咎(とが)が残るだけであるとも言っています。

 どちらにしても執着から離れられない俗世間に生きる人間にとっては、まことに難しいことではあります。

 仏教には「足るを知る」という言葉がありますが、諸々の欲望を前にして肝に銘ずべき教えですね。権力を握る人にはなかなかできないことでしょうが。

鬼手仏心

雨の中に立春大吉の光あり 虚子

 家の門口に「立春大吉」の護符が貼ってある。寒さは厳しく、降る雨もまだ冷たいけれど、その文字には春の光が感じられる。

 この句の情景を思い浮かべるだけで、春の到来を待ちわびる気持ちが湧いてきませんか?

 私は「立春」「春立つ」という言葉や、それらを声に出した時の響きが好きです。

 申すまでもなく、立春は暦の上では春の始まりとされる日であり、その頃を境に気温は日に日に上がっていきます。

 また、中国をはじめアジアの国々では、今でも立春の日を「旧正月」として盛大に祝います。

 この護符を家の門口に貼る理由はこうです。

「立春大吉」という文字は左右対称で、裏から透かして見ても同じく「立春大吉」と読めます。

 ある時、悪さをしようと家に入った鬼がふと振り返ると、門に立春大吉の文字が目に入った。「あれ? これはさっき見たぞ。この家にはまだ入ってなかったのか」と勘違いして出て行った。

 そんな言い伝えから、「立春大吉」を貼って厄除けとする風習があります。

 そんな間抜けな鬼はいないと思いますが、鬼は恐ろしくありつつも、時には純情かつ滑稽で悲しい一面もあって、その「ゆるさ」が立春を迎える景色の中に溶け込んでいる気がします。

 「立春なのにまだ寒い」と思う人がいるかと思うと、「立春と聞くだけで心躍る」という人もおられるでしょう。
 
 鬼を恐いと思うのも、どこか愛すべき存在だと思うのも然り。
 
 すべては心のなせる技です。

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