天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第230号

特別展「最澄と天台宗のすべて」京都国立博物館で開催中――全国から名品130件展示

 宗祖伝教大師一千二百年大遠忌記念として、昨秋から開催されてきた特別展『最澄と天台宗のすべて』が京都国立博物館で始まった。東京、九州と巡回した展覧会の最終会場に、延暦寺はじめ東北から中・四国などに伝わる天台の名品130件が集結。比叡山延暦寺や五箇室門跡などへの利便性も高く街ぐるみの壮大な展覧会としても注目を集めている。期間は5月22日まで。

 展示は東京、九州両会場と共通の6章構成だが、最終会場に相応しく東北や北陸、中四国など全国に伝わる国宝23件、重要文化財72件を含めた至宝が揃った。
注目は、伝教大師最澄上人の現存最古の肖像画や自筆3件(いずれも国宝)、延暦寺の重宝を納める「勅封唐櫃」、日吉山王信仰の象徴でもある重文「日吉山王金銅装神輿(樹下宮)」など。また秘仏では、像内に最澄上人自作とされる薬師像を納めていた法界寺の「薬師如来立像」、愛媛県等妙寺の菩薩遊戯坐像(伝如意輪観音)、大阪府興善寺の30年ぶりの公開となる釈迦如来坐像と、寺外初公開の薬師如来坐像が出品されている。更に延暦寺横川中堂の本尊「聖観音菩薩立像」は12世紀を代表する優品で、間近で観覧できる貴重な機会となる。

 また、開催に合わせて調査された法界寺の「薬師如来立像」、等妙寺の「菩薩遊戯坐像」、圓教寺の「性空上人坐像」の3体の中に収められた納入品を3Dプリンターで再現。胎内仏、五輪塔、骨壺が展示されている。この3体が揃うのは京都会場のみとなる。
展示以外にも学芸員による記念講演会、僧侶による御朱印の授与もある。


――大師の御教え感じながら

 開催前日の4月11日には記者発表及び内覧会があり、期間の無事や疫病退散、世界平和を祈る法楽が伝教大師肖像画の前で営まれた。
午前中に開かれた記者発表会には、延暦寺から小森文道副執行、京都国立博物館の松本伸行館長、担当した大原嘉豊保存修理指導室長が出席した。

 小森副執行は「来場される方々が伝教大師の御教えに触れ、仏さまとの結縁を通じて心の安らぎを得て欲しい」と挨拶。続いて松本館長は「事前調査による新知見も盛り込んでいる。この機会を逃すと、いつ目にすることが出来るか判らない。見所満載の展示」と魅力を伝えた。
午後からは、阿部昌宏宗務総長を導師に水尾寂芳延暦寺執行ら天台宗と延暦寺の両内局、また博物館関係者が随喜して法楽が営まれた。
 
 祖師先徳鑽仰大法会事務局局長を務める阿部宗務総長は「京都会場は比叡山延暦寺のお膝元であり、向かいには妙法院門跡・三十三間堂、そして市中には各宗派のご本山もある。おいでになる方々が伝教大師の御教えや御精神をもとに、各所への訪問も期待している。そして大改修中の国宝根本中堂、展示されている文化財を後世に伝えることができたら」と願いを語り挨拶に代えた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず

老子

 「天網」とは、天の裁きを表します。続いての「恢恢」とは大きいことです。「疎にして漏らさず」は、天の網はとてつもなく大きいため網目も粗いが、どんな「悪」も決して逃さない、という意味です。

 「天道」つまり宇宙の道理は、その下にある人間世界に隅々まで行き渡っており、なんびとも抗することはできません。正しき道である宇宙の道理からは逃れられないのです。天の網からは逃れられないということですね。では、現実は、と考えると、そんなことはあり得ないと思う人の方が圧倒的に多いでしょう。日々伝えられる多くの出来事や事件などをみると、全て正義に照らし合わせて納得のいく結果に至ってないことも事実です。例えば、毎日のように報道される特殊詐欺でも、騙されたままでお金も戻らず、犯人も捕まらないという犯罪例のなんと多いことでしょう。その他の事例でも悪がのさばっているままの多いことは誰もが認めることでしょう。残念でなりませんが、これが現実でしょうか。
 
 老子のこの言葉の一方、同じ中国の『史記』に「天道是か非か」という言葉があります。「天道などというものは本当にあるのか」という意味の言葉です。作者の司馬遷は「善」が栄えず悪が勝利した例を掲げ、絶望感に襲われると記しています。
残念ながら、現実の世の中はまさに司馬遷のいう悪が跋扈(ばっこ)する世界と言わざるを得ません。しかし、たとえ現実がそうであったとしても、やはり、この世界は「天網恢恢疎にして漏らさず」という道理を信じて生きていくことのほうが「生き方」としてはいいと思います。

鬼手仏心

此歳吾妻(このとしあずま)に下るにぞ

 弘仁8年の東国巡錫の旅は、宗祖伝教大師52歳の頃です。東国へ向かう官道であった東山道神坂峠(みさかとうげ)で険しい山道に苦しむ旅人のために、岐阜県側に広済院、長野県側に広拯院という簡易宿泊所「布施屋」を建てられました。

 その旅から1100年余が経過した昭和3年に水尾寂曉、渋谷慈鎧、清田寂栄、逸木盛照の各師が、翌年梅田円鈔師と学生6名が両院の遺跡確定のため現地を踏査しました。これは、開創1150年大法会を10年後に控え、記念事業として両院に遺跡碑を建立するための調査でした。更に昭和32年、本山の高僧方と信越教区役職員、郷土史家の合同調査により、東山道沿いの神坂霧ヶ原(みさかきりがはら)地区に広済院跡を確定しました。翌年、顕彰碑が建立され本庁本山、信越・三岐両教区は、64回の顕彰法要を続けています。

 令和元年、信越・三岐両教区は、顕彰碑が立つ延暦寺飛び地境内に隣接する土地を所有する天台宗と、堂宇建立の土地使用貸借の契約書を交わし、一宗からも助成を得て大遠忌報恩事業としました。
後に天台座主に上任する渋谷慈鎧師一行が豪雨の中、桧笠に草鞋を履き、雨を衝いて峠越えに向かう写真が今でも残っています。私は信越教区宗務所長の時、昭和46年に延暦寺仏青一行が顕彰碑前で撮った写真を地元の方が大切に持っているのを見せてもらったことがあります。40代の小堀光詮師、森川宏映師の姿がありました。

 信越・三岐両教区は、広済院再興堂宇建立の勧募事業を始めております。「目から消えてゆくものは心からも消えてゆく」。「心に念ずることはかたちとなって顕われる」。日本社会福祉の原初といわれる宗祖伝教大師の御遺徳を現代に顕現するべく、御住職、檀信徒の皆様からも心を寄せていただければ幸いです。

ページの先頭へ戻る