天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第228号

新会長に叡南覺範探題大僧正【一隅を照らす運動理事会】

 一隅を照らす運動総本部(竹内純照総本部長)は2月2日に開催した令和3年度第2回「一隅を照らす運動」理事会で、新会長に叡南覺範探題大僧正(延暦寺一山建立院住職)の就任を全会一致で決めた。

 昨年11月に大樹孝啓前会長が天台座主にご上任され、同運動総裁に就任されたことに伴う後任人事。叡南新会長は「みなさんのお力をいただいて勤めを果たしたい」と抱負を述べられた。

 新会長は、次席探題である叡南大僧正を推薦することが阿部昌宏理事長から報告され、全会一致で選出された。また顧問には、新たに小堀光實三千院門跡門主の就任が決まった。

 令和4年度の事業計画については、運動が掲げる「生命」「奉仕」「共生」の実践3つの柱を中心に、支部活動の活性化や教区本部・支部・総本部の連帯強化と拡充、更に一般の人びとへの認知度が上がるような方策を講じることを基本方針としている。広報宣伝や研修会等の実施、支部活動推進の支援などを行うことが確認された。

 竹内総本部長は、「従来行ってきた活動などをSDGsを切り口として活性化し、支部それぞれが取り組みやすいように、また檀信徒が参加しやすいように努めたい。写経会の開催なども含めた支部活動の活性化が重要なので、それらを支援していきたい。動画などを使って発信力を高めていきたい」などと説明を加え、理事らに理解を求めた。地球救援事業についても、全国一斉托鉢はじめ、コロナ禍での海外交流、従来からの各種活動支援を継続することが了承された。


―行動こそ大きな力に―

 理事会の最後に、叡南新会長から、総本部が行う様々な支援についての経緯や願いなどが詳細に語られた。
 タイのプラティープ財団には、就学支援や日本とタイの高校生らによる海外交流などが行われており、30年に亘って交流が続いている。当初を知る叡南会長は「設立者のプラティープさんの活動は、人材育成に心血を注がれた伝教大師の御心と同じだと共感し、比叡の大護摩の浄財から当時5百万円の寄付を決めた」と振り返った。

 そして、タイを訪問し直接寄付金を手渡したことを回顧し、「現地に触れて行動を起こすことが大事」と教示。同様にインドのパンニャメッタ協会への支援の経緯も紹介し、「世界に目を向け、伝教大師の『忘己利他』『一隅を照らす』を心に留めて行動に移れば大きな力になる」と助言した。また各地方で活動する住職や副住職らへの支援も重要との認識を示し「各個人で努力し実績ある人びとを表に出すことが必要」と述べ、運動の更なる展開へ期待を寄せた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

春暁や人こそ知らね木々の雨

日野草城

 水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)、山口誓子(やまぐちせいし)、阿波野青畝(あわのせいほ)、高野素十(たかのすじゅう)。近代俳句史では欠かせない「ホトトギスの4S」と呼ばれる俳人がいます。その先駆けとして活躍し4Sを全盛に導いたとも言われているのが日野草城(ひのそうじょう)です。

 17歳で俳壇デビューを飾り20歳にして俳句雑誌『ホトトギス』で巻頭を獲得するなど、若くしてその才を遺憾なく発揮してきました。解釈としては、「春の夜明け、柔らかな春の雨が音もなく芽吹き始めた木々に降り注ぐ。人はそんな気配に包まれながらも、それを知らずに深い眠りの中にいる」といったところでしょうか。周囲が寝静まった中、草城はひとり起きて、この情景を見ていたのかもしれません。

 人は情報判断の約8割を視覚で処理をしていると言います。この句のように目を瞑り、眠りで意識が遠のいている状態ではもちろん周囲の事は分かりませんね。想像するより他ない春の夜明けを、この目で見ることができないことを惜しいと思うのはこの句の美しさからでしょうか。

 しかし、世の中は必ずしも視覚で捉えられるものばかりではありません。伝教大師が遺された『山家学生式』にはこのような記載があります。

国宝とは何物ぞ
宝とは道心なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す
故に古人言わく
径寸十枚、是れ国宝にあらず
一隅を照す
此れ則ち国宝なりと


 宝とは人の心の中に備わっている目には見えない仏性を磨こうとすること。その精神を持っている人こそが、国宝なのだと最澄上人はおっしゃいました。与えられた場所で自分ができる範囲で最善を尽くし、自分自身を照らします。その輝きは決して目には見えないかもしれません。その行いを見た人々の心を打ち、いずれ支え合うようになり周囲を明るく照らすことでしょう。これが「一隅を照らす」ということです。

 目に見えるもの、見えぬものどちらも大切にと雨が降る中、ふと考えます。

鬼手仏心

さはさりながら

 このごろ、いささか気に掛かっているフレーズ、言い回しがある。「さはさりながら」である。漢字混じりの表記にすれば「然は然り乍ら」と短くはなる。意味するところは「概ね同意しながらも、完全同意乃至全的賛成はしかねる。反論したい部分や要素も有る。」と云ったところか。

 もちろん、「総論賛成、各論反対」という程に明確な意志表示が為された「言い回し」ではない。なんとも煮え切らない中途半端な心理状況から出たごとくに思える。しかしながら吾人の日常を振りかえれば、このような心持になること、させられることが少なくないように思われる。今風に表現すれば「言ってること、おっしゃることは良く分かります。でもねえ…」は政治・経済・文化の各方面などと気取らずともコロナ禍への対応も含めて普段の生活のありとあらゆる場面に兆して来るはずである。規矩(きく)や原理原則は理解しながらも実践・実行を伴わせることは、そうそう簡単なことではないと実感させられることしきりである。

 さて、この「さはさりながら」であるが、肯定的に使うか、はたまた否定的に使うかで風景は一変するようである。否定的に使えば、出来ないことやしたくないことの理由づけになり、逃げ口上に多用されてしまうことともなるであろう。

 ことばに罪の有るはずもなく使う側の用い方次第である。とすれば、天台の傘のうちに身をおくものとして、我が宗祖大師の「み教え」には「然は然り乍ら」を挟まず、唯唯(いい)として従いたいと念願しているが、否定的方向から襲い来る「さはさりながら」には悩まされることである。

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