天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第210号

比叡山宗教サミット33周年「世界平和祈りの集い」開催

 比叡山宗教サミット33周年「世界平和祈りの集い」が8月4日、比叡山延暦寺一隅会館前広場に建つ記念碑前で開催された。森川宏映天台座主猊下が平和祈願文を述べられ、参列者らは恒久平和に願いを込めて祈った。式典の模様は全世界に動画配信され、祈りを共有した。

 新型コロナウイルス感染症感染拡大防止から、今年は国内外の宗教代表者への案内は見送り、宗機顧問会会長の杉谷義純妙法院門跡門主や宗議会議員と宗務所長ら一部の宗内関係者、天台宗と延暦寺の役職員のみでの開催となった。

 式典は午後3時15分から杜多道雄宗務総長の挨拶で開式。天台宗と延暦寺内局の出仕で法楽後、大導師を勤められた森川座主猊下が平和祈願文を奉読され「新型コロナウイルスという新たな脅威と対峙しており、世界は空前の危機に瀕している。人びとが不安に苛まれている今こそ、私ども宗教者は対話による相互理解を深め、共に祈り、世界平和を希求し続けなくてはなりません」と呼びかけられた。また終戦75年にも触れられ、戦歿者を慰霊し、恒久平和の実現を誓われた。

 午後3時半には文殊楼にある鐘楼「世界平和の鐘」が打ち鳴らされ、全員で一分間の黙祷を捧げた。
 海外からは、ローマ教皇庁諸宗教対話評議会議長のミゲル・アンヘル・アユソ・ギクソット枢機卿から「新型コロナウイルス感染症は、忘れられていた多くの価値観を思い出させてくれた。祈りと希望は全ての宗教に共通し、私たちが有限を超えて物事を見る手助けとなる」とのメッセージが寄せられ、世界仏教徒連盟のパン・ワナメティ会長からも今回の集いへの期待があった。

 最後は、水尾寂芳延暦寺執行から比叡山メッセージが朗読され、平和への祈りと行動を続けることを誓い合いながら閉会となった。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル

 何か困難があったとき、あるいは苦悩があったとき、『夜と霧』を読み返します。

 ユダヤ人精神科医であり心理学者であった『夜と霧』の著者フランクル。第二次世界大戦下に、ナチスドイツによる迫害を受けました。1942年に彼は結婚して間もない妻、そして両親と共に、テレージエンシュタット強制収容所に連れて行かれます。父はそこで死亡、妻と母は別の収容所に移送され亡くなります。フランクルは途中、ホロコースト最大の犠牲者が出たアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を経て、最後の移送先の収容所でアメリカ軍に開放されます。

 『夜と霧』にはフランクルが体験してきた強制収容所での様子が描かれています。収容者たちにあまりに簡単に迫り来る死と、彼らが置かれた過酷な状況は読み手の心を強く激しく揺さぶります。そこには悲惨さだけでなく大きな感動があります。なぜか。それはフランクルが、彼らがどうやって絶望していくのか、また何を心の支えにしていったのかを描くことを通して、「人間とはなにか、生きるとはなにか」の答えを与えてくれるからだと思うのです。

 フランクルは「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。」と述べています。
つまりどんな人生にも意味があるのだ、というのです。その苦しみの中に、私たちが背負う使命があり、私たちはそれを見出すことができるというのです。
  
 どんな過酷な状況であっても、「意思」や「思い」をその人から誰も奪うことはできない。今ある状況や環境の中で、いかに自分の思いを持ち続けるか。
 その「思い」こそ私たちの生きる意味であり使命なのだと、フランクルは伝えています。

鬼手仏心

生涯におけるチャンス

 鬼手仏心への寄稿も7回目です。
 題して【ありがとうの話・子どもは偉い・啐(そったくどうじ)啄同時(そったくどうじ)】等々、読み返してみて、「臆面もなくよくも下手な文章を書き散らしたものだ」と赤面します。

 ガラッと変わって、かつてこんな話を聞きました。「ひとはその生涯に三度主役になれるチャンスがある」
 まず最初はこの世に生を受けた時(誕生)、次によき伴侶に恵まれ人々に祝福される時(結婚)、最後にこの世という舞台から退場する時(死)だそうです。これはあくまでもその可能性があるということで、すべてが万人平等とはいきません。
 結婚という第二のチャンスについては、多分にご本人の意思や縁が関係するようです。望まないひとや恵まれない場合もありますし、反対に複数回主役を演ずることができる幸せ者(?)も数多くいらっしゃるようです。不肖わたくしは今のところ一度しか経験しておりません!

 さて、私たちに平等にいつか必ずおとずれる、ラストチャンスである【死】。たいへん厳粛の刻です。
 近年の風潮として、親交のあった人たちにお知らせしないでお送りする(家族葬と小さなお葬式など)傾向があります。むろん故人の意思やご遺族のお考えによってのことだろうとは思いますが、私は首をかしげます。
 加えて、昨今の新型コロナ禍、大変残念、悲しいことです。

 「ひとに歴史あり、個々人の人生という壮大なドラマの終焉(しゅうえん)」にあたって、どんな形であれ縁ある多くの方々から見送られる最後の主役の舞台は準備されるべきだと考えます。できれば天台の教義・法式に則って。彼・彼女に二度とチャンスはおとずれませんから。

 最後になりましたが、本稿が私のラストチャンスでした。勝手なことを書き散らしましたが、ご愛読(してないか?)ありがとうございました。

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