天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第189号

北総・茨城教区で特別授戒会−天台宗祖師先徳鑽仰大法会−
仏弟子となり「忘己利他」の実践を誓う

 祖師先徳鑽仰大法会の一環として各教区で特別授戒会が奉修されている。去る10月20日に北総教区で、同21日に九州東教区で(前号既報)また、26日には茨城教区において、それぞれ特別授戒会が奉修された。

北総教区
 北総教区(弘海高顯宗務所長)の特別授戒会は10月20日、千葉県成田市の「ナリコーセレモニー寺台ホール」において奉修された。伝戒和上は大樹孝啓探題大僧正(書写山圓教寺住職)が勤め、戒弟は245名であった。
 午前10時より開会となり、開会にあたって奉行である弘海宗務所長と小堀光實延暦寺執行が挨拶、続いて鈴木晃信説戒師(長福寺住職)より授戒にあたっての心構え、大事な事柄などについて説明がなされた。11時からの正授戒では、大樹伝戒和上が十二門戒儀を説示し、戒弟に「おかみそり」を授けた。また、羯磨師の秋田光兆観音寺住職、玉田法信東榮寺住職が仏舎利を授与した。なお、同授戒会の随行長は小堀延暦寺執行、随行員に浅野玄航天台宗参務、教授師は弘海厚久正徳寺住職、鈴木乘啓泉福寺住職がそれぞれ勤めた。

茨城教区
 茨城教区は10月26日、筑西市の千妙寺で特別授戒会を厳修、155名が新たな仏弟子となった。
 開会式で中村純亮宗務所長は「信仰の心を醸成し、円満生活を送れる糧にして欲しい」と述べ、随行長の杜多道雄宗務総長も「これからも精進を」と語りかけた。続いて説戒師の阿純孝宗機顧問が心構えを伝授。教授師の高山良彦延暦寺財務部主事より作法を聞いた後、伝戒和上の叡南覺範探題大僧正(毘沙門堂門跡門主)を迎え正授戒が営まれた。十二門戒儀を説示し、一人ひとりに「おかみそり」を授けた叡南伝戒和上は「日頃からお念仏を唱え、善を行い悪を止めて日々暮らしていただくことを祈念している」と話した。なお随行員に獅子王圓明延暦寺副執行、羯磨師は宗議会議員の舩戸俊宏如意輪寺住職がそれぞれ勤めた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

資産をもてばもつほど人間は、それを所有しつづけることに執着する生きものである

「ローマ人の物語38」塩野七生

 人間の生活は、単純に見ますと、日々命をつないでいくことの積み重ねでしょうか。
 たとえば、原始時代の狩猟・採取生活の頃ですと、一日分の糧(かて)をその日に得られれば、良かったのです。  
 しかし、いつでも充分に糧が得られるわけもありませんから、なるべく多くの食糧を蓄(たくわ)えておく必要が出てきます。何日も糧を得られない日々がありますからね。
 その基本的な暮らしの形態の中からやがて、食べ物の交換など経済活動がだんだん出てきます。
 すると必然的に生活の糧を交換しうる貨幣経済に発展し、段々と時代を経て現在の社会に至るわけですね。
 で、商品経済の時代になると貨幣に換わりうる土地、家屋、金銭などの経済活動の資本となる「資産」が、人間生活に重要な意味を持つようになります。
 しかし、暮らしに必要とする糧を大幅に超える蓄えを持つことは、本来余分なことなのですが、人間の「欲望」はそれを許しません。「もっと、もっと」となるのです。
 すると悲しいかな、今度は、それを手放せなくなるし、さらにさらに増やすことが目的化します。
 もうここに至ると、他人よりも所有してるという抽象的な優越感だけのためのように思われます。
 でも、その飽くことのない欲望の「むなしさ」に気づいて、持てるものを捨て去ることなど、中々出来ることではありません。「執着」ですね。いろんな「執着」がありますが、中でも所有への「執着」は一番でしょう。
 『少欲知足』という教えが常に説かれるのも、この「執着」を絶つことの難しさゆえでしょうね。
 人間の悲しい性(さが)と言えましょうか。

鬼手仏心

邂逅について

 俳人の黛(まゆずみ)まどか氏が平成三十年十月号の『月刊住職』に、自身の遍路について寄稿しておられる。
 「四国遍路は多くの接待を受けながら自然の中を巡り歩くことで、そこかしこに宿る神を感じさせる。道中に得た気づきは点から線となり、円となって内なる遍路を立ち上げる。『見えない世界』を感じるのは、とことん一人を味わうからでもある。キャリアも肩書きもすべてを消す白装束(しろしょうぞく)をまとった時、出会うのは自分。︱中略︱出会ったのは縁に支えられて歩いている自分自身だった。歩き続けると境界がなくなっていった。︱中略︱遍路で出会うもの全てが遍路からの使者なのだ。その使者との邂逅が、求める人の意識次第で救いの橋となるのだろう。」
 この一文に、私は共感する。私も山歩きはけっこう一人である。山中一人で彷徨(さまよ)うと、吾一人というどうしようもない孤独と共に、不可思議としかいいようのない、この世界の何かを感じるからである。基本的に邂逅は、この人に出会わなかったならば私の人生はどうなっていただろうかという想いを懐くような出会い。そして、それは深い感謝を伴い、省察(せいさつ)、慚愧(ざんき)を経て人生の方向付けに大きな関わりを持つものでもあると考えている。しかし人とではない邂逅もあって良いのではないか。宗教とは如何なるものかは永遠のテーマであろうが、私は特定の宗教では無く宗教性というものに心惹かれる。
 それは、山中での体験が大きい。
 誰しもと思うが、生きていくことは言うまでもなく辛い。それでも自らの人生は自らの足で歩まねばならない。

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