天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第133号

未だ癒えぬ悲しみの中、復興を誓う
3/11 天台宗陸奧教区が気仙沼市で慰霊法要

 東日本大震災から四年目を迎える三月十一日、宮城県気仙沼市の觀音寺(鮎貝宗城住職)では「東日本大震災物故者祥月命日陸奥教区法要」を鮎貝住職の導師、陸奥教区寺院住職の出仕で厳修、天台宗からは木ノ下寂俊宗務総長並びに田中祥順財務部長、横山照泰一隅を照らす運動総本部長らが参列、震災物故者の冥福を祈った。同法要には、地元及び全国の震災犠牲者の遺族、被災者、同教区寺院住職など約三百名が参列、新たな悲しみの中、慰霊の祈りを捧げた。

 觀音寺では、震災発生の年から毎年、檀信徒の犠牲者をはじめ、すべての震災物故者の慰霊法要を執り行っており、今回の法要にも多くの遺族が参列した。三年の月日が経ったとはいえ、被災者遺族の悲しみは癒えず、犠牲者への新たな想いに涙を浮かべる姿が見られた。
 法要に参列した木ノ下宗務総長は「私たちはこの度の苦難に屈することなく復興に立ち上がらねばなりません。今日、私たちに課せられた課題は、伝教大師様の申された『己を忘れて他を利する』の精神の実践であると思います。『己を忘れて他を利する』ことは、言葉を換えれば助け合うことです。天台宗では、この『忘己利他』の精神に則り『たすけあって日本』を旗印に支援活動を行って参りました。今後もこの精神をもって復興支援に努めていきたいと思っています。私たちは一人ではありません。一人では存在し得ないのです。多くの人々が助け合っていくならば、必ず、この世は浄仏国土となると信じております」と復興支援への決意を込めた挨拶を行った。
 なお、法要に先立って、木ノ下総長は、追悼のため田中、横山両部長、鮎貝觀音寺住職と共に、津波で多くの人が命を落とした内の脇地区を訪れた。同地区には、一体の観音像が建立されている。この観音像は、津波で妻と娘を失った觀音寺檀信徒の横田瑞夫さん(72)が同地区の犠牲者追悼のため建立したもの。木ノ下総長らは、犠牲者の慰霊のための献花と、読経を捧げた。
 同日は、全国で慰霊法要が営まれた。総本山延暦寺では、半田孝淳天台座主猊下を導師に、延暦寺一山諸大徳並びに阿部昌宏天台宗総務部長、天台宗参務らの参列のもと、慰霊法要が営まれた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

人間というものは、
必要に迫られなければ、
善を行わないようにできている。

マキャベリ『マキアヴェッリ語録』塩野七生著(新潮文庫)

 「人間というものは」と一括りにされると、ちょっと抵抗があります。「一般的には」とか「大抵の」とか、そうでない人間もあるというニュアンスも入れてほしい感がしますね。
 それに、「善」とは何か、という問題もあります。道徳的にみて正しいことという意味が一般的でしょうが、西洋の場合、宗教的な教えに従って生きることも善でもあるようです。
 そして、人間は「必要に迫られなければ、善を行わない」というのですから、マキャベリの人間観は、性悪説のようです。客観的に見て人間は利己的であり、偽善的であるという捉え方のようです。
 「必要に迫られて」ということは、どのような状況なのでしょう。自分にとって不利にならないようにすること、立場を優位にしたり、賞賛を浴びるようにするためでしょうか。
 自分に利益があれば善を行うということは、例えば、選挙に立候補するにあたり、自己の人物像を好ましいものにするために「善」を行う、などが考えられます。やはり、「偽善」ですね。
 シビアな現実社会では、実利という点で「マキャベリズム」は大いに有効性を発揮するとは思います。連日、マスコミで報道される社会の出来事を見れば、人間の「性悪説」に与せざるを得ないような様相です。
 しかし、仏教的見地、特に天台宗の教えからすれば違うと思います。「利他」の精神には、意図した「利己」はありません。「己を忘れて」の善行則ち「利他」ですから、偽善は排除されます。
 たとえ現実が「性悪説」の世界であっても、私たちは、必要に迫られて善を成すのではなく、すすんで利他行をすべきだと思います。マキャベリの言葉は逆説的に捉えたいものです。

鬼手仏心

幸せだなぁ(2) 天台宗総務部長 阿部 昌宏

 「働きざかりの人で、突然病におかされ、短期間に死を迎えることがある。そうした人の中には、精神的に大きな苦しみを背負っていた人が多いような気がする」と、作家の吉村昭さんは書いている。もちろん、すこやかに生きている人に、突然死が襲うことだってよくある。
 吉村さんが言いたいのは「私は、病は気からという言葉がある通り、精神的なものが病気に大きく影響し、発病を促す重要な要因になっているように思えてならない」ということである。だから、私たちは普段の生活を波風立たないように心がけなくてはならないのである。具体的にいえば、すぐに怒ったり、人を貶(おとし)めたり、羨(うらや)んだりする生き方は良くないということである。
 さて、先号にも書いたが、二十歳で末期の結核患者だった吉村さんは、その頃、朝起きるたびに「今日も目が覚めた。生きていた。ありがたい」と思ったそうだ。 その習慣は、生涯続き、朝起きると「今日も、生きている。大過なく過ごせている。幸せだなあ」とつぶやいていたということだ。吉村さんは「そうつぶやくと気分が明るくなり、今日一日、しっかり仕事をしよう」と思っていた。
 城山三郎さんとの対談で「子どものころを思い出したりしてね。常に幸せだなと思う。思うようにしてるの。今や、朝起きるといつも幸せだなと思うようになった」と言い、城山さんは「毎朝起きる度に幸せって思うの?(笑)季節の変わり目で、花の匂いで幸せを感じるとかね。それならわかるけど。毎日という人はあまりいないですよね(笑)」と不思議がっている。
 しかし、これは吉村さんが正しい。
 自分で、朝起きたときに「幸せだなあ」とつぶやくと、その日一日は明るい日になるからだ。

仏教の散歩道

プロクルステスの寝台

 プロクルステスはギリシア神話に登場する強盗です。ちっと変わった強盗です。
 プロクルステスは「引き伸ばす者」の意で、これは本名ではなく綽名(あだな)です。
 街道に住んでいたこの強盗は、旅人を自分の家に泊めてやります。それはいいのですが、彼の家には大小二つのベッドがあり、背の高い旅人は小さな寝台に、背の低い旅人は大きなベッドに寝かせます。
 大きなベッドに寝かされた者は、当然、背が足りません。するとプロクルステスは、この旅人を槌(つち)で叩き伸ばし、重しでもって寝台の長さに引き伸ばすのです。逆に、小さなベッドに寝かされた大きな男は、長すぎてはみ出た頭を鋸(のこぎり)でもって挽(ひ)き切られてしまうのです。
 しかし、このプロクルステスは、のちにテーセウスという英雄に殺されます。テーセウスはこの強盗を小さなベッドに寝かせ、はみ出た頭をちょん切りました。プロクルステスはまさしく「自縄自縛(じじゅうじばく)」であり、「自業自得」ですよね。
 だが、われわれ現代日本人は、このプロクルステスを笑うことはできません。なぜなら、これと同じことをわれわれがしているからです。
 どの子もどの子もすばらしい個性をもった子どもです。それなのに、わたしたちは子どもを鋳型(いがた)にはめて個性を殺してしまう。元気のいい、明るく活発な子を、「乱暴」というベッドに寝かせて、はみ出た元気をちょん切ろうするのです。ほんのちょっと知識の習得の遅れている子を、「知能」といった寝台に横たえ、引き伸ばそうとしています。子どもたちは悲鳴をあげているのに、おとなたちの耳にはその声が聞こえないのです。
 そんなことをしているものだから、そのおとなたちが自業自得で、自分のつくった寝台に寝かされます。そして、ある者は「怠け者」の烙印を押されて、「もっとがんばれ!」と発破を掛けられる。また、ある者は「遣(や)り過ぎ」の刻印を押され、世間から手酷(てひど)いバッシングにあいます。家庭内にあっても、妻は夫を、夫は妻をベッドに寝かせて、引き伸ばしたり、ちょん切ったりしています。
 現代日本人は、プロクルステスになってしまったのです。
 では、どうすればよいでしょうか?
 わたしたちは、「プロクルステスの寝台」ではなく、「仏陀のベッド」を持つべきです。
 「仏陀のベッド」は、すべての人がゆったり、のんびりと寝られる寝台です。背の低い人には小さな寝台を、体重の重い人には大きなベッドを用意してあげる。怠け者も勤勉家も、みんなが安心して生きていくことのできるベッド。そういうベッドをわたしたちは心の中に用意したいですね。そして、それが仏教者の務めだと思います。

カット・酒谷 加奈

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