天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第126号

比叡山宗教サミット26周年世界平和祈りの集い
宗教を超え、宗派を超えて祈る
―比叡山山上に一千人が集う

 比叡山宗教サミット26周年「世界平和祈りの集い」が8月4日、比叡山延暦寺の一隅を照らす会館前「祈りの広場」で開催された。仏教を始め、神道、教派神道、キリスト教、新宗教、イスラームなど、国内外から約1000名が参加、今なお続く戦火の早期の終結と世界平和の実現を共に祈った。

 午後三時、阿純孝天台宗宗務総長の開式の辞により式典は開始され、「第四十八回天台青少年比叡山の集い」に参加した青少年が平和の折り鶴を奉納、比叡山幼稚園児が献花した。法楽に続いて半田孝淳天台座主猊下は平和祈願文を奉読、世界平和は遠く、紛争も絶えず、環境破壊や人心の荒廃などの厳しい現状を指摘。「人類は『力』による文明に価値を見いだし、他民族を武力で制圧し、さらには、自然を征服することさえ正義であると考え、その究極が核兵器開発であった」と述べられた。また、このような文明を続けるならば、あらゆる生命体を育んでくれる地球の破滅につながると訴えられ、宗教・宗派を超えて行動を起こし対処すべきと提言された。
 続いて国内外の各教宗派の代表者が登壇。平和の鐘が打ち鳴らされる中、世界各地で続く紛争の一日も早い終結と世界平和の到来を祈って、参加者全員が黙祷を捧げた。
 また、世界宗教者を代表して、ジャン=ルイ・トーラン枢機卿(教皇庁諸宗教対話評議会議長)とパン・ワナメティー世界仏教徒連盟会長のメッセージが披露され、宗教間の垣根を超えて共に平和を希求しようとの呼びかけに会場からも大きな拍手が湧き起こっていた。今回は、特に若い世代の平和への想いを述べる場が設けられ、比叡山高校生の渡邊愛衣(わたなべめい)さんが『お互い様の心』と題し、また、天台青少年比叡山の集いに参加した佐伯頼賢(さえきよりまさ)君が『平和への想い』と題し、それぞれスピーチ。渡邊さんは、東日本大震災の折、世界各地の紛争地域や貧しい国々から、精一杯の支援が届けられたことに触れ「『お互い様』と人間同士が思いやり、感謝し合う心を持つことで人々の心が結びつくのではないでしょうか」と、佐伯君は平和な日本に感謝しながらも、世界の紛争や貧困に思いを馳せ「本当の意味で平和になるためには互いに顔を合わせ、話し合い、わかり合うことが大切」とし、全ての人が同じ思いで関わることが平和に繋がると訴えた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

勝負は日常心にある

「勝負の心」大山 康晴

 永世王将、永世棋聖でもある大山康晴第十五世名人は、戦後日本を代表する将棋界の重鎮です。
 大山名人は「ふだんのトレーニングを怠って、いざ勝負の場に臨んで力を出そうとしても成功するものではない」といい、極論すれば、将棋を指す前に、身支度を調えて盤の前に坐ったときにすでに勝負はついているのだ、とさえ言い切っています。
 世界は違いますが、日本を代表するバイクレーサーの片山敬済(たかずみ)さんからも同じような話を聞きました。
 片山さんは、試合前には必ず瞑想をされることで有名でした。瞑想で集中力が高まってくると体全体から光るようなオーラが出たといいます。
 そうすると「走る前から勝てるレースは、はっきりとわかった」というのです。単なる勝ち負けだけではなく、どのような状態でゴールするかまでイメージができたともいいます。
 あるレースでは、このまま出場すれば、事故に巻き込まれてケガをするという予感がありました。普通なら棄権するところですが「プロの沽券(こけん)にかかわる」と、あえてレースに臨みました。結果は、大けがをして長期療養を余儀なくされることになりました。その世界で一流といわれる人は、戦わずして結果まで予想できるものなのでしょう。
 言うまでもありませんが、トレーニングをしないというプロの世界はありません。不断の努力に加えて普段の心がけが大事ということでしょう。「小さな事の積み重ねがその人の実力となってあらわれる」と大山名人は言います。
 ある棋士が対局にジーパンとジャンパーで現れたといいます。その人にも言い分はあるでしょうが、対局場は棋士にとって聖域です。誰に言われるまでもなく、紋付袴に威儀を正すのが当たり前です。それでは勝てないでしょう。
「人それぞれにさまざまな行動がある。その動きのなかに、私たちが気づかぬ形で勝負が進行している」という大山名人の言葉は、どの世界でも通用する真理のように思われます。

鬼手仏心

お互い様の心 天台宗法人部長 山田 亮清

 今年の比叡山宗教サミットでは、比叡山高校の渡邊愛衣(わたなべめい)さんのスピーチ「お互い様の心」が印象的でした。
 渡邊さんは、東日本大震災発生時に各国から救援隊や、救援物資が送られてきたことに触れています。その中には小さな島国や、貧しい国からの援助もありました。
 震災発生時には、世界の様々な国の人々が、犠牲になった方々を悼み、復興に向けて祈りを捧げたと伝えられました。これなども「お互い様の心」といえると思います。
 渡邊さんも指摘されているように、インド洋の小さな島国であるモルディブからは六十万個のツナ缶が贈られました。モルディブでは一個のツナ缶が数回分の食事に相当するぐらい高価なものです。
 アフガニスタンのカンダハルからは四百万円が届けられています。一日の生活費が約二百円という生活水準からみれば、相当な援助でしょう。
 渡邊さんは、大震災のような大きな災害が起こってから、人と人が結びあうのではなく「お陰様」「お互い様」という人間同士が思いやり、感謝しあうことが、小さな日常の中で人々の心が結びついているような世界であって欲しいと述べました。青少年が、このような考えを持っていることに救われる思いがします。
 黒住宗道(くろずみむねみち)黒住教副教主は渡邊さんのスピーチに対して「悲しみは、分かち合うことで、その辛さが薄められる。例えて言えば『割り算』のようなものである。また、喜びは分かち合うことで倍になる。それは『かけ算』である。当たり前にあることが、どんなに有り難いかを考えることが感謝につながる。生かされて生きているお陰様の心を大事に」と講評したのも有り難いことでした。

仏教の散歩道

殺されてよいのか!?

 人を殺してなぜ悪いのか? ときどき、そのような質問をされる人がおいでになります。殺人といった極端な話ではなしに、不倫がなぜ悪い?嘘をつくのがなぜ悪いか?そのような問いが発せられます。
 そのような質問が出てくる背後には、不倫をしている人はあまりにも多いし、嘘をつかない人はいないといってよいほど、ほとんどの人が多かれ少なかれ嘘をついているといった現実があります。ばれさえしなければ、嘘をついても不倫をやってもいいだろう。というのが世間の常識になっています。
 殺人に関しても、現在の日本の法律は死刑を存続させています。死刑は人を殺すことです。また、戦争において敵兵を殺すことも、明らかに人を殺すことです。そのような「殺人」を容認しておいて、一方で「人を殺してはいけない」と言っている。まさに矛盾です。だから若い人から、「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった疑問が発せられるのです。それにまともに答えられるおとなはいますか? そんなの分かりきったことだと答える人は、なぜ死刑廃止の運動をやらないのですか?また、戦争放棄の憲法を改悪しようとする政治家どもに反対しないのですか?
 まあ、それはともかく、この問題を仏教的に考えてみましょう。
 仏教的に考えれば、わたしは、問題の問い方を逆にすべきだと思います。すなわち、「なぜ嘘をついてはいけないのか?」と考えるのではなしに、「あなたは、他人に嘘をつかれてうれしいですか?」と問うべきです。「人を殺してなぜ悪いか?」と問うのではなく、「あなたは他人から殺されたいですか?」と考えるのです。そうすると、おのずから答えが出てくるでしょう。
 じつは、古代インドのコーサラ国の波斯匿王(はしのくおう)は、妃の末利(まり)夫(ぶ)人(にん)と話し合って、
 「自分自身よりも愛(いと)しい人は、この世に誰もいない」
 という結論に達しました。誰もが自分をいちばん大事だと思っている、ということになったのです。でも、そういう考えでいいのだろうか、それはエゴイズムではないのかと波斯匿王は心配になり、釈迦世尊を訪ねて行き、教えを請いました。
 すると、釈迦世尊は、「王よ、それでいいのだよ」と答え、次のように言われました。
 《人は、おのれより愛しいものを見いだすことはできぬ。それと同じく、他の人々にも、自己はこの上もなく愛しい。されば、おのれの愛しいことを知る者は、他の者を害してはならぬ》(『相応部教典』三・八)
 自分が殺されたくないと思っているように、他人もまた殺されたくないのです。だから、わたしたちは他人を殺してはいけないのです。それが釈迦世尊の教えです。
 死刑制度を支持する人は、自分は殺されてもよいと思っているのですか・・・・・・

カット・酒谷 加奈

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