天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第114号

世界宗教者平和の祈りの集い「脱原発」のメッセージ発表
二十五周年、歴史的な「集い」に

比叡山に平和と鎮魂の祈り

自然災害の猛威と宗教者の役割
 
 二十五周年を迎える「世界宗教者平和の祈りの集い」は、仏教、キリスト教、イスラーム、宗教対話組織など海外十二カ国の宗教代表者を迎え、八月三、四の両日、国立京都国際会館並びに比叡山延暦寺根本中堂前を会場に開催された。
 今回のテーマは「自然災害の猛威と宗教者の役割」で、三・一一大震災と原発事故への反省と実践について話し合われた。
 三日に国立京都国際会館で行われた開会式には、約千二百人が参加し、東日本大震災を始め世界各地の自然災害で犠牲になった人々に黙祷を捧げた。
 続いて哲学者の梅原猛氏が「『草木国土悉皆成仏という思想』と題して記念講演を行った。梅原氏は「人類はエネルギーとして原発を使用すべきではない」と断言した。
 またシンポジウムでは「被災者に宗教者は如何に向き合ってきたか」をテーマに話し合われ、大災害に見舞われた、イタリア、タイ、中国、トルコ、日本の宗教代表者たちが被災者支援の実態について発言した。
 四日に開催された「原発問題が提起したエネルギー問題と宗教者の立場」をテーマとするフォーラムでは、各パネリストから「宗教者としては、原発ではなく、安全なクリーンエネルギーに切り替えていくことを主張すべきである」との意見が続出した。
 同日、参加した国内外の宗教指導者たちは、比叡山山上で犠牲者を追悼し、世界平和の実現を祈った(写真)。
 そして最後に発表された「比叡山メッセージ二〇一二」では「原発を稼働し続けることは宗教的、倫理的に許されることではない」という文言が盛り込まれ「脱原発」の姿勢が鮮明にされた。(四・五・七面に別報)

献花と追悼の花文字「結」

 祈りの式典壇上には、天台青少年比叡山の集い参加した子どもたちの手によって「結」の花文字が作られた。
 花文字には、東日本大震災犠牲者への献花と追悼の思いが込められた。また「結」の文字は共生と絆を象徴する。花文字に使われたリネアリスの花言葉は「別れた友を思う」。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

ひとは他人の美を見たがらず、
むしろ好んでその醜を見たがる

藤沢周平「うらなり与右衛門」

 青少年のいじめが問題になっています。
 いじめという曖昧な言葉でごまかさずに、はっきりと暴力、虐待、すなわち「犯罪」というべきでしょう。
 犯罪ならば警察にまかせるべきで、捜査権や逮捕権のない学校や教育委員会が対応するのはお門違いではないでしょうか。いじめ加害者の父兄は「学校は根も葉もない噂で、うちの子を犯罪者にしようとするのか」と学校側にねじこんだと報じられていました。こうなれば、加害者と被害者を同時に抱える学校に真相を解明できる力があるとは思えません。 
 ネットで人気を誇るブロガーは「京大方式に学べ」と言っていました。昨年、入試でカンニング疑惑が発覚した京都大学は、即座に警察に調査を依頼しました。「大学の自治」を標榜する第一人者でさえ、犯罪と認めた段階で対応を警察にゆだねたのです。すなわち「京大方式」です。
 けれど、いじめは子どもたちの世界のものではありません。古今東西、強者が弱者を支配し、いじめ、虐待してきたのが人類の歴史です。
 パワハラ、格差、リストラ、貧困等々の理不尽な差別はどこにもあります。小さくは家庭の問題から、大は国家間の紛争まで「正義」ではなく「力」で解決される問題のいかに多いことか。それをはね返し、あるいは無視し、抱え込み、慣らしてゆくかが人生といってもいいでしょう。
 さて、藤沢周平さんの時代小説には、颯爽としたスーパーヒーローは登場しません。禄高が少なかったり、容姿が醜かったり、身内から罪人を出したりして、藩や派閥からは軽んじられるという非情さの中で、わずかでも真実を求めようとし、その中にあたたかみを探す人々です。世間とは「他人の美を見たがらず、むしろ好んでその醜を見たがる」ところです。いいかえれば、いじめの横行する生きにくい場所です。
 その中で誇り高く生きる人を描く藤沢周平の世界が中高年の共感を呼ぶところです。

鬼手仏心

犬と猫、どちら? 天台宗法人部長 山田 亮清

  
 最近は自己啓発の本が大人気です。
 しかし元外務省主任分析官の佐藤優氏は「真の自己能力の向上は対人関係の中でしか養うことはできない」と言っています。
そうはいっても、誰しも初対面の人と会話するのは緊張するものです。この人はどういう人なのか、ハッキリと分かっているわけではないし、どんなことを話題にしたらよいのか迷います。まさか「あなたは、どんな人ですか?」などと聞くわけにもいきません。
 外交官は、外国要人と会って親しくなるのが仕事です。そんな時、彼らはどうするのか。佐藤氏は「動物の話から入るのがいいですよ」といいます。「あなたは、犬と猫とどちらが好きですか?」というように聞いてみるのです。その時に、動物に憎悪が感じられたり、いじめた話をする人物は要注意だといいます。それでノッてこなかったら、子どもの話をする、相手の子どもでもいいし、その人の子ども時代の思い出というものでもいい。動物にも関心が無く、子どもにも感心がないという人は、かなり利己的な傾向があって友達が極端に少ない可能性がある。したがって要注意ということになるといっていました。
 東日本大震災でマスコミに登場したのは圧倒的に「犬派」でした。死んだと思っていた愛犬と三十三日ぶりに再会できた話など心温まるものでしたが、また悲しい話もありました。仮設住宅に入居するにあたり、周りの迷惑を考えて九年間飼った愛犬を手放した男性は、新しい飼い主が現れると「俺も頑張るから、おまえも頑張れよ」と涙を流して送り出したといいます。
 亀や魚の話もありましたが、それは例外。さて、あなたは犬と猫とどちらが好きですか?

仏教の散歩道

ほんとうの安楽

「明らめ」とは何か?
「あきらめる」ことは、断念することだと多くの人が思っています。
 たとえば、交通事故で片腕を失った人がいます。その人の手は二度と生えてきません。「だから、あきらめなさい」と言うとき、そのあきらめは断念することです。それはそれで、まちがいではありません。
 けれども、仏教が教える「あきらめ」は、それとはちょっと違います。
 仏教が教えているのは「明らめ」です。真実、事実を明らかにしなさい、ということです。
 しかし、真実、事実というものは、そう簡単に明らかになるものではありません。
 たとえば、いま、あなたは人間関係のトラブルに悩んでいるとします。なぜ、そんなことになったのか、必ず何か原因があったはずです。けれども、あなたがその原因を探ろうとすると、人間というものは物事を自分の都合のいいように解釈します。
 その結果、たいていの場合、
 〈わたしはちょっとも悪くない。こういうことになったのは、彼が悪いからだ〉
 と考えるようになります。でも、それは「明らめ」ではありません。相手も同様に、〈こんなことになったのは、あいつが悪いからだ〉と考えていますから、いっこうに物事は解決しません。仲直りができないのです。
 では、あなたは、 
 〈わたしが悪かったのだ〉
 と考えるべきでしょうか。年寄りはよく訳知り顔で、
 「何事も、自分が悪かったと思いなさい」といった忠告をしますが、それじゃあ解決になりません。本当に自分が悪いと思っていませんから、感情的なしこりが残ります。だから、また仲が悪くなります。
 ということは、〈わたしが悪かったのだ〉と思うことは「明らめ」ではないのです。
 では、どうすれば「明らめ」ができるでしょうか?わたしは
 │分からないことが、分からないことだと分かることが「明らめ」だ│ 
 と思っています。なぜなのかは分からない。その「分からない」ということが分かれば、それが「明らめ」なんです。
 だから、不和になった人と、無理に会う必要はありません。会わずにすむのであれば、会わないでいいのです。
 だが、どうしても会う必要のある人であれば、その人と会ったとき、その出会いをこだわりなく、さらりと会うのです。
 過去のことを「忘れろ」と言っているのではありません。過去は過去として、一時的に棚上げにして、まるで初めて会った人のように振る舞うのです。〈この人と再びいい関係を築きたい〉と思ってはいけません。
 そんなことを考えると、過去のことが思い出されます。ただ「さらりと会う」ことだけを考えればいいのです。

カット・酒谷 加奈

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