天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第96号

人材育成、生命の尊さを重要課題に
―将来に備え刊行物のアーカイブ化も―第121回通常宗議会

 二月二十二から二十四日まで第百二十一回通常宗議会が開催され、平成二十三年度通常会計歳入歳出予算など予算関係議案と宗規関係議案などが可決承認された。「人材の育成」、「教えの普及」「寺院の存続」を執務の軸として宗務行政に取り組んでいる阿内局は二年目を迎え、その具体的な実践に取り組む。

 宗議会冒頭、阿純孝天台宗宗務総長は執務方針を述べた。「祖師先徳顕彰大法会」については、同大法会企画委員会において、伝教大師ご生誕並びに一二〇〇年大遠忌、慈覚大師一一五〇年遠忌、恵心僧都一〇〇〇年遠忌を執り行うとの方針が出されたことを受け、今後、宗議会で成案を得るべく協議を委ねていくことが示された。
 また、過去に天台宗で発行された刊行物をデジタル保存し、将来に役立てるために順次アーカイブ化していくことを明らかにし、広く宗徒に利用できるようにしたいとしている。
 そして、ヨーロッパにおける聖エジディオ共同体主催の「世界宗教者平和の祈りの集い」、イタリア・アッシジでの二十五周年記念「世界平和祈祷集会」への使節団派遣の予定も発表された。
 内部行政面では、今秋任期満了を迎える教区宗務所長などの選挙事務事項についての説明もなされた。
 平成二十三年度通常会計歳入歳出予算は十一億二千五百万円。「人材の育成」という阿内局の柱となる行政目標については、「得度前育成」「得度後、四度加行までの期間」「四度加行から住職になるまでの期間」の三段階の研修体制を整えるとし、その具体的事業として現在、「十三仏教本」を作製中で、刊行間近であることも明らかにされた。
 さらに、布教委員会では昨年同様「生命(いのち)」を重点課題とし、法華経を通してその尊さを考えていく方針であることが報告された。
 また、「天台青少年比叡山の集い」「第八回天台キャンポリー」の実施、多数の自死者を出している現代社会への取り組みの一つとなる「自死者慰霊法要」を重要法要と位置づける方針、人権啓発活動のための講師養成などが示された。
 一隅を照らす運動総本部の活動については、実践目標の現在の三つスローガンを簡明なものに変更し、「あらゆる命を大切にしよう」「みんなのために行動しよう」「自然の恵みに感謝しよう」とすることが発表された。
 
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「一隅落語」を披露 露の団姫(まるこ)さん
 
 一隅を照らす運動総本部(福惠善高総本部長)では、二月十七日、天台宗務庁で落語家、露の団姫さん作の「一隅落語」を披露した。
 総本部は、同運動推進に相応しい内容の新作落語を団姫さんに依頼、この程完成し、お披露目となったもの。総本部では、今後、各教区の推進大会などで、「一隅落語」を団姫さんに演じてもらい、一隅を照らす運動の一層の活発化に役立てたいとしている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

父と母は
毎朝そろって観音様にお供えをし
手を合わせて深々と頭を下げ
一日が始まっていました。
ぼくはその光景がとても好きでした。

滝田栄

 ある若手の落語家さんから「お囃子が鳴って、それから高座に上がるまでに三十秒ほどの時間があります。その時に私は座布団に向かって『トチらないように御願いします』と願掛けをします」と聞いたことがあります。
 また高名なレーサーは、レースに挑む一時間前に必ず瞑想すると言います。イチローもバッターボックスに入る時に集中力を高めるルーティングがあります。
 皆に共通するのは、ここ一番に臨む時に行う儀式があるということです。その儀式が自信を確立させ、よい結果を生み出すのです。
 私たちは、毎日起床し、仕事に、学校に、家事にと、それぞれの役割に応じた生活に入ります。
 その多くは、朝のあわただしさにかまけて、惰性で流されているのではないでしょうか。
 新しい一日を「感謝」で始める、あるいは「祈り」という儀式で始められてはどうでしょうか。
 その時に、今日一日、自分はどのように過ごし、どのように思いを叶えるのかということをイメージされると更に効果は大であると思います。
 成功した人の多くは「心の中で強く願うことは必ず叶う」と言っています。逆に言えば、自分が何をしたいのかイメージできない、何も願うことがないというような心で臨むなら、何事も叶いようがありません。
 滝田さんのご両親は、観音様を深く信仰されていたのでしょう。毎朝、両親そろってというのが素晴らしい。その敬虔な祈りが目に浮かぶようです。
 「ぼくはその光景がとても好きでした」という滝田少年の言葉もまた、素敵です。
 護られて在ること、その安心感、また信仰深い両親への尊敬と温かい眼差し。こういう光景は、かつて日本の家庭のどこにでもみられたものです。

鬼手仏心

病なく身強き人 天台宗参務法人部長 山田亮清

 
 兼好法師は「徒然草」で「友達にしたくない人」として「病なく身強き人」を挙げています。
 つまり体が頑丈で、一度も病気もしたことのない人は、友達にはしたくない、といっているわけです。これは「辛い思いをしたことのない人は、友達にはしたくない」と言い換えてもよいかも知れません。
 人には、色々と屈折した思いがあります。劣等感や嫉妬や甘え苦しみ、依存等々という感情は、誰しも持っていますが、決して他人には吐露できません。
 しかし、言わなくてもそれは無いわけではない。鈍感な人はこの機微がわかりません。こういう人から正論をいわれると、イライラするものです。
 兼好法師の言われているのは、生まれついての大金持ちには、ホームレスの人たちの気持ちは分からないのと同様、病気をしたことのない人には、病気になった人のことはわからないということでしょうか。
 私も以前に、入院加療した経験があります。検査のために絶食をすれば、やはり辛いものです。
 比叡山の千日回峰行者は百日間、五穀と塩を断ち、九日間は、断食断水で十万枚の護摩を修します。それに比べれば何だということになりますが、やはり辛いことは辛い。
 私の場合、水分は許されましたから、お茶の味とはこんなに深いものだったのかということを知りました。その甘さ、美味しさには感激しました。
 また治療を終えていただく白粥の美味なこと。これらは経験したものでなくてはわからないと思います。
 少なくとも「そんなこと大したことじゃないじゃないか」という人とは友達になりたくありません。

仏教の散歩道

泥の中に幸福はない

 愚かな男が大きな池の辺りにやって来て、水の底に何か光る物を見つけました。
 〈きっとあそこに黄金があるのだ〉
 そう思って男は水の中に入り、泥をかきまぜて探します。けれども、何も見つかりません。
 彼はあきらめて池から出ます。しばらく休んでいると、濁った水がだんだん澄んできます。すると、再び水中に光る物が見えました。男はもう一度池に入り、泥をかきまぜて探します。しかし、やはり徒労でした。
 一方、その男の父親が、息子の帰りが遅いので心配して迎えに来ました。
 「おまえは何をしている?」
 「水底に黄金があるのですが、池の中に入って探しても見つかりません」
 息子からそう聞いた父親は、岸に立って周回を見ます。なるほど、水の底に何か光る物が見えます。
 〈これはきっと、池の岸にある樹の上に黄金があって、それが水に映っているのだろう〉
 そう考えた父親は、そこで樹上を探しました。するとそこに黄金がありました。
 この話は、仏教経典の『百喩経』(巻三)に出てきます。経典によると、この話はわれわれに「無我」を教えています。愚かな男が池に映っている黄金の影を黄金そのものと錯覚しているように、わたしたちも仮の姿にすぎないこの身体を本当の「われ」と思い込み、その自我に執着しています。その愚かさを諭(さと)した話です。
 でも、わたしは、この話をちょっと違った角度で解釈したいと思います。
 それは、本当の幸福というものは、じつは樹の上にあります。
 ところが、わたしたちはそれに気づかず、幸福は池の中にあると思い、池に入って泥をかきまぜて幸福を探します。それだと見つかるはずがありません。
 本当の幸福というものは、簡単に言えば、一家団欒(だんらん)で食事ができることです。そんなにご馳走がなくてもいい。みんなが笑顔で楽しく食事ができる。それ以上の幸福はありません。
 だが、わたしたちは、そんな一家団欒を犠牲にして、泥の中に黄金を求めています。亭主は会社人間で、家族と一緒に食事をしません。奥さんも外に出て働いています。収入をよくするためです。子どもは鍵っ子になるか、進学塾に通わされています。老人たちは老人ホームに住む。みんなてんでばらばらの生活をしています。すべては物質的欲望を充足させるためです。
 それで幸福が得られるでしょうか……?
 泥の中に黄金という幸福があるわけがありません。泥の中で得られるのは泥だけです。
 わたしたちは愚かな男と同じく、大きな錯覚をしているのですよね。

カット・酒谷 加奈

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