天台宗について

全国の寺院~主な寺院~

延暦寺

根本中堂

天台宗の総本山

 延暦4年(785)、伝教大師最澄は比叡山に上り草庵を結びましたが、その三年後には一乗止観院を創建し、ここを鎮護国家の根本道場と定めました。これが今日の根本中堂です。
 以後、慈覚大師円仁・智証大師円珍や慈恵大師良源の時代とともに整備され、盛時には三塔十六谷三千坊といわれる大寺院に発展しました。しかし、織田信長の焼打ちにあって大多数を焼失し、現存する建造物はほとんどがその後の再建です。
 三塔とは東塔・西塔・横川(よかわ)をいい、主な伽藍として東塔には、本尊薬師如来を安置する根本中堂を中心に、大講堂・戒壇院・明王堂・大師堂・伝教大師廟である浄土院などの建物があります。西塔には釈迦堂を中心に、にない堂・黒谷青竜寺等があります。釈迦堂は転法輪堂ともいい、もとは大津の園城寺の弥勒堂金堂でしたが、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に山上に移築したと伝えられています。横川には、円仁が創建した横川中堂(首楞厳院)を中心に、元三大師を祀った四季講堂、恵心院、安楽律院等があります。
 比叡山は日本仏教の宗家ともいうべきもので、法然・日蓮・親鸞・道元など日本仏教の各宗の祖師がここで学び、あるいはここで出家得度しています。
 また、比叡山の守護神として坂本の日吉大社があります。
(大津市・京都市)

滋賀院門跡

 滋賀院は坂本にある延暦寺一山の総本坊で、代々の天台座主の御座所として、滋賀院御殿とも呼ばれています。
 元和元年(1615)、慈眼大師天海が後陽成天皇から京都の法勝寺を賜って建立したもので、穴太衆積みという自然石の石垣の上に白土塀と勅使門が調和し、風格あるたたずまいを見せています。
 また、徳川家光の命によってつくられた池泉築山式庭園はみごとなもの。庭に面した宸殿、その奥の客殿、二階の書院、階段を上がり奥まったところにある仏殿と、豪壮で落ち着きある造りが見られます。
(大津市坂本)

妙法院門跡

三十三間堂の千体観音

 妙法院は、平安時代末期に後白河法皇の帰依を受けた僧昌雲が、法皇の御所法住寺殿に隣接して住坊を構えたことに始まる寺院。
 鎌倉期には膨大な寺領と勢力を誇るまでに至りましたが、南北朝、応仁の乱などで堂塔を焼失。その後、豊臣秀吉が大仏殿(方広寺)を造営した時、妙法院を大仏経堂に定められたことから再び大きく発展しました。
 近世に入って、後白河法皇の御所法住寺殿の御堂として長寛2年(1164)に創建された三十三間堂(蓮華王院)をも管理することになり、また皇族の入寺する門跡寺院として公家文化の伝統を守ってきました。
 桃山建築の庫裏をはじめ、大書院や仏像など数多くの文化財があります。また、三十三間堂は、長大な単層入母屋造りで、内陣に並ぶ1001体の観音像は壮観です。
 京都五ケ室門跡の一つ。
(京都市東山区東山七条)

三千院門跡

 三千院は、延暦7年(788)、伝教大師が東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、一念三千院、または円融房と称したのが起源とされています。
 その後、清和天皇の勅願により滋賀県東坂本の梶井に御殿を建て、円融房の里坊とされました。また、元永元年(1118)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室され、皇族出身者が住侍する宮門跡となり、歴代の天台座主を輩出してきました。
 応仁の乱後、大原の魚山一帯にあった大原寺(来迎院・勝林院の総称)を管領する政所があった現在の地を一時仮御殿とされ、現在に至っています。
 大原は、平安時代初期、慈覚大師(円仁)が中国五台山から伝えた五会念仏により声明梵唄の発祥の地となり、魚山来迎院を開いた良忍上人が天台声明を集大成された地でもあります。また、往生極楽を願う人々の隠棲の地として、往生極楽院を中心に念仏聖による不断念仏・引声念仏が盛んに行われ、天台浄土教の聖地となりました。
 境内には国宝の弥陀三尊を祀る極楽院、特に来迎の相を表し、純日本式の座り方(大和坐り)をしている脇士の観音・勢至菩薩は類例がなく有名です。
 また、本尊薬師如来(秘仏)などを祀る宸殿、明治の京都画壇を代表する下村観山・竹内栖鳳などの襖絵のある客殿、そして金森宗和の修築による池泉鑑賞式庭園の聚碧園、宸殿前の有清園など四季折々の景観を楽しむことができます。
 京都五ケ室門跡の一つ。
(京都市左京区大原)

青蓮院門跡

 青蓮院は粟田口にあることから、粟田御所・粟田宮とも呼ばれます。本尊は、熾盛光(しじょうこう)曼荼羅(画像)。
 開基は伝教大師最澄で、初め青蓮房といって比叡山の東塔南谷にあり、その第12代行玄大僧正に鳥羽法皇(1103-1156)が帰依され、その第7皇子をその弟子とし、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称されたのが始まりです。
 青蓮院は平安時代末から鎌倉時代に及ぶ第3世門主慈円(1155-1225)の時に最も栄えました。慈円寂後20年して第6世門主となった道覚親王が天台座主となって以来、青蓮院は入道親王入寺の寺として明治に至りました。
 明治26年(1893)大火にあい、本堂以下多くの貴重な建物が焼失しましたが、その後、清の竹林寺の一堂を移築して本堂とするなど境内が整備されました。
 当院の多くの国宝・重要文化財中、青不動明王画像は日本3大不動の一つとして特に知られています。
 京都五ケ室門跡の一つ。
(京都市東山区粟田口)

曼殊院門跡

大書院と霧島つつじ

 曼殊院は、もともと伝教大師の草創に始まり、是算国師が住持をつとめた時に比叡山西塔北谷に移り東尾坊と称しました。
 是算は菅原氏の出身であったため、天暦元年(947)、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられました。以後歴代、明治までこれを兼務することになります。
 天仁年間(1108-1110)、学僧 忠尋座主が当院の住持であった時、東尾坊を改めて曼殊院と称しました。
 現在の地に移ったのは明暦2年(1656)で、八条(のち桂)宮智仁親王の次男良尚法親王(後水尾天皇猶子)の時である。親王は正保3年(1646)に天台座主に任ぜられ、当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心されました。
 庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところが多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮と深い関連があります。
 京都五ケ室門跡の一つ。
(京都市左京区一乗寺)

毘沙門堂門跡

 毘沙門堂は、正式には護国山安国院出雲寺毘沙門堂といいます。
 最初は比叡山延暦寺の別院でしたが、その後、後陽成天皇(1571-1617)が勅を下して、日光山輪王寺の座主慈眼大師天海に修興を命じ、徳川幕府も寺地を寄進しました。寛文5年(1665)堂宇が完成しました。のちに輪王寺の門跡であった公弁法親王が入寺したことにより、毘沙門堂門跡といわれるようになりました。以後、代々輪王寺宮法親王の兼務の寺となりました。
 本尊の毘沙門天は、伝教大師最澄自作とされています。
 寺宝の洞院公定の日記は国宝に指定され、南北朝史の貴重な史料とされています。
 京都五ケ室門跡の一つ。
(京都市山科区安朱)

寛永寺

 寛永寺は東叡山円頓止観院寛永寺といい、比叡山・日光山と並んで、江戸時代には天台宗三大本山の一つでした。
 徳川家光の時、上野の山が江戸城の鬼門にあたることから、江戸城鎮護の祈願所として寛永二年(1625)本坊が竣工したので、その年号をとって寛永寺と名付けられました。また喜多院の山号をとって東叡山と称しました。
 慈眼大師天海は、釈迦堂・多宝塔・三十番神社・清水観音堂・求聞持堂・弁財天堂・食堂・慈恵大師堂・山王社・別当本覚院等を建立しました。徳川家の菩提寺ということもあって、諸大名も競って諸堂を建立しました。
 しかし、幕末の彰義隊の戦争によってほとんど焼失し、後に本堂は喜多院より移されましたが、山内は上地を命ぜられ、本堂・清水観音堂・御廟屋と若干の支院を除いてほとんどが官有となり、後に恩賜公園(現 上野公園)となりました。
 本尊は薬師如来。両界曼荼羅図や愛染明王図など数多くの寺宝があります。
(東京都台東区)

輪王寺

 輪王寺は日光山輪王寺といい、二荒山(ふたらさん)神社・東照宮とともに、日光の2社1寺として、日光山の運営にあたりました。開創は天平神護2年(766)沙門の勝道上人が初めて日光山内にいたり、四本龍寺を建立しました。当地は回峰修験の道場であり、観音信仰の霊地でした。
 嘉祥元年(848)、円仁が勅を奉じここに来て、三仏堂・常行堂・法華堂を創建し、鎮護国家の道場としました。円仁入山の際、山内37ケ寺の支院ができ、その総号を「一乗実相院」といい、円仁を開祖としました。これを機に当山は天台宗に帰することになりました。
 江戸時代の元和3年(1617)、天海は徳川家康の遺骸を久能山から日光山に遷座し、山王一実神道の祭祀形式によって家康を東照大権現として祀り、日光廟(東照社)を創建しました。
 江戸時代を通じ、代々の日光山主は上野の東叡山寛永寺の宮が兼務し、天台一宗を管理しました。
 明治4年(1871)、神仏分離令が発布せられると、東照権現は東照宮となり、輪王寺の称号や東叡山の山号もすべて廃され、寺は旧称の満願寺と改称されましたが、明治16年(1883)に輪王寺の寺号を許され、2年後には門跡号が充許され、今日の日光山輪王寺となりました。
 本堂の三仏堂は、明治14年(1881)二荒山境内から現在の地に移されました。
 主な国宝として、輪王寺大猷院霊廟や『大般涅槃経集解』等があります。
(栃木県日光市山内)

中尊寺

金色堂の覆堂

 中尊寺は、関山中尊寺といいます。
 嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁が東北に遊化した時、当地の藤原興世(おきよ)(817-891)が円仁に帰依して堂宇を造立し、円仁手刻の仏像、書写如経を安置、日吉・白山両権現を勧請して創建されました。
 その後、源頼義、義家も寺領を寄進し、貞観元年(859)に清和天皇より「中尊寺」号を与えられました。長治2年(1105)に、藤原清衡が掘河天皇の勅命を受けて、当寺の再興を企て、以後、基衡・秀衡も当寺の維持にカを注いで、盛時は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と言われるほど隆盛を極めました。しかし、建武4年(1337)、惜しくも野火のため金色堂をのこして多くの堂塔は焼失しました。
 中尊寺は、今なお、金色堂はじめ3000余点の国宝・重要文化財を伝え、東日本随一の平安美術の宝庫です。また、源義経(1159-1189)のゆかりの地としても有名です。
 他にも所蔵の宝物として、金銅孔雀文磬、螺鈿八角須弥壇、中尊寺経蔵堂内具等があります。
(岩手県西磐井郡平泉町)

善光寺

 善光寺は定額山善光寺といい、天台宗および浄土宗の別格本山です。
 本尊である秘仏「一光三尊の阿弥陀如来」は欽明天皇の時代(6世紀)に百済の聖明王から伝えられ、日本最古の仏像といわれています。
 推古天皇の10年(602)、本多善光(若麻績東人-わかおみあずまんど)が、国師のお伴で上洛して故郷に帰る途中、難波(今の大阪市浪速区)の堀江に棄てられていた仏像を見つけ、故郷である信濃国麻績の里に持ち帰り祀ったのが善光寺のはじまりです。
 一光三尊とは、一つの光背の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊が立たれる姿をいいます。
 善光寺の特徴は、天台宗・浄土宗の本山を兼ねていることです。天台宗の別格寺で、当寺の別当職であった寺を大勧進といい、浄土宗の別格寺で、主務職を大本願といいます。 大勧進の説によれば、弘仁6年(815)最澄が当寺に詣でて、その基礎をたてたものだといいます。
 「牛にひかれて善光寺参り」の言葉の示すように、古くから信州一国に留まらず、全国に知られた名刹で、民間信仰の中心でした。
(長野市元善町)

ページの先頭へ戻る