天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第91号

寺院と僧侶のあるべき姿を問う
「葬儀は誰の為に行うのか?」 全日仏シンポジウム

 社会構造の変化に伴う人口の流動化により、かつての寺院と檀信徒を含む地域住民との関係は希薄になり、都市部では、寺檀関係のない住民が増えている。そのため、寺院と一般住民との間に宗教的な意識の共有化がなくなってきている。特に葬儀や法事などでは、信仰を抜きにしたサービスとみなすような意識が多くなってきている。全日本仏教会(河野太通会長)ではこのような現状に鑑み、去る九月十三日、東京・秋葉原コンベンションホールにおいて「葬儀は誰の為に行うのか?~お布施をめぐる問題を考える~」をテーマとするシンポジウムを開催、寺院と一般の人々との間に、かつてのような信頼関係を再び構築できるのか、という課題について討議を重ねた。

 シンポジウムの第一部では、石田佳宏大和総研主任研究員、中島隆信慶応大学商学部教授と、葬送ジャーナリストの碑文谷創氏、作家であり僧侶である玄侑宗久師が講演した。
 石田氏は、人口構成の推移を基に葬儀費の支出データや葬儀に関する宗教性、信仰・祭祀費の支出割合などのデータを提示し、葬儀における宗教性欠如の傾向を指摘。中島氏も、葬儀が宗教活動としてではなく、「サービス業」化しているとし、現代社会における寺の存在意義の喪失につながると警告している。
 碑文谷氏もその背景に言及、寺院と檀家の関係は「住職は仏教の教えを説くという法施をし、檀家は財施で応える」関係であり、双方が宗教共同体である寺院を維持していくという基本を再確認し、葬儀も僧侶が死者を仏弟子として彼岸に送り、遺族の悲しみに寄り添うという原点に戻ることの必要性を強調した。
 現役の僧侶である玄侑師は「消費される葬儀」になっている現状を憂い、葬儀は死者を縁として生身の人間と向き合う場であり、布施がギャラ化し、葬儀に付随する諸事もシステム化して行う儀式ではないと主張した。
 第二部では、各講師の講演をもとに聴講者から出された質問をテーマに討議。葬儀における布施の意味、料金明示の問題などについて、それぞれの立場から発言があったが、最終的には今後の「信仰」「寺院・僧侶の在り方」に議論の焦点が移った。
 「本来の布施の意味さえ知らない一般の人も多い。仏教をどう教えていくのか」(中島氏)。「寺から一歩出て、地域住民との連携が必要」(石田氏)。「開かれた寺にすべき」(碑文谷氏)。「情報化社会といわれるが、結局は生身の僧と人々との関係が基本」(玄侑師)など、現実の状況に甘んじることなく、仏教の原点に戻って活動を深めるべきとの意見に集約され、宗教法人としての危機的状況にあるという意識を持つことの重要性が指摘された。


 団塊の世代とどう向き合うか

 葬儀に関する支出が最も多いのは団塊の世代(六十一~六十三歳)。葬儀に関するアンケートによると、団塊の世代は自分の葬儀に宗教性を求めない人が四割を占める。
 また、その子どもの団塊ジュニアも人口比は大きく、その宗教意識も低い。高齢化社会であり、二〇四〇年までは、葬儀件数の増加が予想されるが、中でも、この二世代が、今後の葬儀の在り方に大きな影響を持つといえる。
 葬儀形式の約九割を占める仏教としても、単なる儀式としての葬儀ではなく、誕生から死までの一貫とした関係の中での『葬儀』が求められている。この二世代にどう対処していくのかが、大きな課題である。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

私たちは、彼をその恥から解放するために遠い国からやってきた。

黒住 格/「ネパール通信」

 アジア眼科医療協力会が、ネパールで続けている「アイキャンプ」という医療活動があります。最初は黒住さんが、現地で青年海外協力隊の力を借り、昭和四十七年に独りで始めました。当時のネパールは発展途上国で、産業らしいものもなく、貧しい国で栄養障害から早老となり白内障を患う人が多かったのです。
 アイキャンプとは、眼科医とスタッフが学校や寺院を仮病院として整備し、眼の治療を受けられない現地の人々に外来診察や手術をする野外活動のことです。
 アイキャンプが開かれることは、まずラジオで放送され、口コミで伝えられました。何日も何日もかけ、患者はキャンプ会場にやってきます。皆、日本の医師に診てもらいたくて、広島から青森に匹敵する距離を歩いてやってくるのです。
 たいていは三、四人連れで、先頭の男が後の者の手を引いて来るといいます。先頭の男は昂然と顔をあげてやってくるのに、導かれている人は顔を落とし、足取り重く歩いてきます。
 先頭の男は息子で、導かれているのは父親です。父親は、いつも自分が家族の労働の中から人手をとって、貧困を更に重ねる役割を果たしてきたと思っているのです。彼の態度は、そのことを深く恥じているように思われます。
 黒住医師は「私たちは、彼をその恥から解放するために遠い国からやってきたのだ」というのです。こうも語っています。活動はボランティアで、食事はまずく、衛生状態も悪い。けれども、貧しい村に陽が昇れば、菩提樹は金色に輝きます。空はあかね色です。天と地が触れあっているような気がします。 
 このような自然の中では神々と思いを共有して生活できるようです。彼は「この国に聖者が生まれた二千五百年前から、万象は少しも変化していないのではないか」と書いています。しかし、万象は変化しなくても、国境を越えて他者の幸せのためにやって来る人たちが出てきたのです。

鬼手仏心

生きてる舌  天台宗参務教学部長 齊藤 圓眞

 
 日本最古の仏教説話集『日本霊異記』には、亡くなってからも法華経を読誦しつづける僧侶のドクロが出て来ます。
 村人が、山の中で法華経を読誦する声を聞いて不思議がるので、高僧が調べてみると、修行僧の白骨化した遺体が見つかります。体は白骨化していますが、舌は腐っていません。このドクロが、法華経を読誦していたのです。
 日本霊異記は「このことは法華経の不思議な力によるのである。経を読み、功徳を積んだしるしである」と絶賛しています。
 これが平安中期の比叡山横川の僧、鎮源の手になる『法華験記』によると、同じ話なのに、かなり趣が違ってきます。
 一叡という法華経の持経者が、熊野に参詣して野宿していると、一晩中、法華経を読誦する声が聞こえます。明るくなってからその辺を見ると、よほど年月の経った屍骸が見つかりました。しかし、その口の中の舌は腐敗しておらず、赤く鮮やかで、生きている人の舌のようです。
 一叡が、屍骸に向かって過去世を聞くと「私は比叡山の東塔の僧だったが、修行中にこの場所で死んだ。生前、六万部の法華経を読誦するという願を立てていた。ところが、半分で死んだ。そのため死後も、その残りを読んでいるのだ」と答えたというのです。
 こうなると「ありがたい」とばかりはいえないようです。
死してもなお舌だけを生き残らせているのは不気味だし、怖ろしいという気持ちにもなります。法華経読誦への執着を、哀れと思うのは私ばかりでしょうか。
 現世での「強い執念」が、法華経の功徳を減じているような気もします。

仏教の散歩道

サイコロで決める

 仏教講演会が終わったあと、聴衆から質問がありました。
 「先生、わが家のご先祖様が、江戸時代にはキリシタンであることが分かりました。わたしはいま仏教徒なんですが、ご先祖様に申し訳がないから、仏教徒からキリスト教徒に改宗すべきでしょうか? それともこのまま仏教徒でいるべきでしょうか? ご教示ください」
 そういう趣旨の質問です。
 おもしろい質問ですが、あまり時間がありません。それでわたしは、手っ取り早く結論を先に述べました。
 「では、サイコロで決めなさい。サイコロを振って、偶数が出たらキリスト教徒になる、奇数だと仏教徒のままでいる。そのように決めるといいですよ」
 会場には爆笑が起きました。これだと、ふざけた答えと勘違いされる心配があります。質問者が、「どうしてですか?」と言えば、わたしは少し説明を加える気でいました。
 わたしの考えはこうです。かつて大学教授をしていたとき、多くの学生から進路について相談を受けました。しかし、わたしは、人間は未来について知る能力がないと思っています。だから、未来をどうすればよいか、誰にも分かりません。もしもわれわれが未来について迷うなら、そしてどちらでもいいと思うのであれば、その決定は人間を越えた宇宙意思にまかせるべきです。わたしは仏教者ですから、わたしは未来については仏におまかせします。しかし学生には仏を強制できませんから、宇宙意思と呼びました。その宇宙意思は、サイコロのような偶然によって示されます。わたしは、学生にはそのように説明しました
 そのような説明を、わたしは仏教講演会場の質問者にするつもりでいました。
 ところが、驚いたことに、質問者は、わたしの「サイコロで決めなさい」といった言葉だけで納得したのです。
 「先生、ありがとうございます。これでわたしの永年のもやもやが晴れました」
 感激の面持ちで、彼はそう言ったのです。
 びっくりしたのはわたしです。なんだか狐につままれたような気持でした。
 あとで考えてみて、質問者の考えが推測できました。
 彼は、わたしの返答によって、「キリスト教に改宗すべきか、仏教徒のままでいるか」といった問題が、サイコロで決めていいようなつまらぬ問題だということに気づいたのです。別段、わたしが彼に教えたのではありません。彼自身がそれに気づくことができたのです。
 そして彼は、自分は仏教徒のままでいようと決心がついたのです。キリスト教徒でいるか、仏教徒でいるか、それが形式だけの問題であればどうだっていいのです。それよりも、自分は実質的な仏教徒になろうと決心したのです。きっとそうだろうと、わたしは推測しています。

カット・酒谷 加奈

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