天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第87号

カリフォルニア宝珠院護摩堂が落慶

 米国西海岸・カリフォルニア州で四月二十三日から二十五日にかけて、天台モナスタリー宝珠院の護摩堂落慶、カリフォルニア州立大学バークレー校で東アジア学部創立五十周年記念シンポジウム、ならびに書道のデモンストレーション等が行われた。今回の宝珠院護摩堂落慶により、東海岸の天台宗ニューヨーク別院同様に、西海岸での布教拠点の充実化がなされたと言えよう。

 二十三日に行われた「天台学のシンポジウム」では、一島正眞大正大学名誉教授が「比叡山における顕密融合思想の展開」と題して発表した。また、塩入法道大正大学教授が「日本の神と仏の融合に基づく山王神道」と題して講演した。同大学での天台学シンポ開催は初めて。
 翌二十四日には宝珠院護摩堂の落慶式が行われた。同寺を活動拠点とするレアリー・恵照師は、一九九一年に赤山禅院の叡南覚照師に弟子入りし、九七年から二〇〇二年まで赤山禅院に滞在、上原行照師の指導のもと四度加行を満行している。そして二〇〇三年にカリフォルニアに帰国し、五年間かけて護摩堂を建立したものである。
 落慶法要の大導師は千日回峯行北嶺大行満・上原行照大阿闍梨がつとめた。
 式典では、栢木寛照師(修験道法流・慈照院住職)が「恵照師は、比叡山の麓、赤山禅院で長年に亘り厳しい修行を積み重ね、天台の教えを自らのものとされた。アメリカ帰国にあたり叡南師から『寺院を建立するならば、山があり谷があり川がある地に建てよ』と教えられ、その通りに護摩堂を建立されたことは誠に素晴らしい。叡南師は、初護摩を修する時には、日本から天台僧が行こうと約束されていた。その約束を果たすために本日我々はやって来た」と祝辞を贈った。
 二十五日には、バークレイの仏教寺院で書道の解説とデモンストレーションが行われた。柴山宣慶・山陰教区弥勒寺住職は日本から持参した最新の作品の書風を解説、伝教大師の「一隅を照らす」という文字から「照」の字を選び、フロアいっぱいに大筆で書き上げると参加者から感嘆の声があがった。

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 杉谷委員長が核廃絶を訴える
 =国連・核拡散防止条約再検討会議=

 五月七日、国連本部で開かれた核拡散防止条約再検討会議における非政府組織代表による「NGOからの提言」で、杉谷義純世界宗教者平和会議(WCRP)国際軍縮安全保障常設委員会委員長(天台宗宗機顧問)がスピーチを行った(写真)。NGO提言者は、世界の三百団体以上から申し込みがあったが、実績でWCRP国際委員会など十五団体が選ばれた。
 杉谷委員長は宗教者の立場から「核武装は、それによって守られるのではなく更に大きな脅威にさらされる」と指摘、「他者に謙虚になることで安全が保障される」と世界に呼びかけた。
 会場では各国政府代表ら約四百人が耳を傾けた。この後、広島市の秋葉忠利市長と長崎市の田上富久市長がスピーチをおこなった。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

いい人と歩けば祭り 悪い人と歩けば修業

瞽女(ごぜ)  小林ハル

 二〇〇五年に、百五歳で亡くなった小林ハルさんは「最後の瞽女」と呼ばれています。
 「瞽女」とは、三味線で門付けをしながら村々を歩いていた目の不自由な女性たちのことです。数人が一組となり、山や谷を越え、民謡や流行歌を披露し、門付けをして僅かばかりの収入を得ていました。
 小林さんが生涯に旅した距離は、延べ五十万キロにも達したといいます。最後は、人間国宝にも認定されましたが、小林さんの生涯は、生まれて百日後に白内障で失明、五歳で瞽女に弟子入りし、九歳の時から、旅芸人として各地を回り始めるという文字どおり血の滲む修業の日々でした。
 三味線の稽古で手はいつも血にまみれ、真冬の稽古では、毎日早朝や夜に叫ぶように唄い、声をつぶしました。
 二十六歳の時に養女をもらい、母になる喜びを味わったのもつかの間、風邪をこじらせた養女は四歳で亡くなってしまいます。
 お釈迦様は「この世は苦の世界である」と教えられました。人は四苦八苦に苦しめられます。その一つに「愛別離苦」があります。養女を亡くしたことがそうです。
 それでも小林さんは「本当に涙がこぼれるような事があっても涙を隠してきた。泣いてしまったら、唄になんねぇから」というのです。
 瞽女は数人で歩きます。「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修業」と小林さんはいっていました。
 四苦八苦には「怨憎会苦」というものもあります。人の怨み、憎しみを受けることはもちろん、人を怨んだり憎んだりすることも含みます。いじめや嫉妬をする嫌な人と仕事をしなくてはならないのは、この苦しみです。小林さんは「難儀な時にやるのが、本当の仕事」といいます。人間国宝の言葉です。

鬼手仏心

気は長く・・・                                天台宗参務一隅を照らす運動総本部長 福惠 善高

 
 宗務庁に登庁する時、いつも滋賀院門跡を通らせていただいている。
 自坊から滋賀院門跡の御門に至るまでの道に、碑文が刻まれた石の常夜灯が二つ、三つある。
 その一つに、比叡山を再興した慈眼大師天海大僧正のお言葉が刻まれている。
 「気は長く、つとめはかたく、色うすく、食ほそうして、心ひろかれ」
 というお言葉である。
 このお言葉をいつも読みながら、脇を通り過ぎるのだが、“少しでもこのお言葉に近づけただろうか”と、自省しながら、歩を進めている。
 お言葉の意は簡明で、腹を立てず、仕事はしっかりと行い、欲に溺れず、心を広く持ちなさい、ということであろうが、いざ、実行できるか、といえば、これがなかなか難しい。四六時中、これを戒めとして頭に入れておけないのが凡人の常なのだから。
 中でも“欲”はいけない。
 食は“腹八分目”でいきたいが、時として暴飲暴食して、ほどほどにせねば、なんてつい忘れてしまう。
 物欲なんかも“もう少し、もうちょっとだけ”などと、歯止めを忘れて、結局、大損したりする。
 悲しいかな、“欲”に管理されてしまって、“欲”を管理できないのが大方の人間である。
 あのバブル期の日本人は、アメリカさえも買い占められると、驕り高ぶっていたものだが、バブルは崩壊し、日本は未だに経済低迷から抜けきれてはいない。「少欲知足」という言葉が今ほど必要な時代もないだろう。
 たとえ完璧に、天海大僧正のお言葉が実行できなくとも、毎朝、出勤時には、このお言葉を心の中で反芻していきたいと思っている。

仏教の散歩道

心のうちにある差別

 阿弥陀仏は、自分が仏になったときにつくる仏国土を「差別」のない世界にしたいと願われました。すなわち好醜(こうしゅ)(美人と不美人)の差別があってはならないと考えられたのです。阿弥陀仏の願いは全部で四十八ありますが、これは第四の願いです。
 そして、そのような願いにもとづいて建立(こんりゅう)された仏国土が極楽世界です。仏国土は仏の国ですから、そこは清浄の世界であります。だから「浄土」ともいいます。ともあれ、極楽世界、あるいは極楽浄土は、好醜の差別のない世界です。
 わたしは大学院生のときに『無量寿経』の四十八願を読みました。そのときに思ったのは、
 〈それなら、極楽浄土の人はみんな同じ鋳型(いがた)で作られたブロンズ像のようなもか〉
 ということです。同じ姿、形をした人間ばかりがいる極楽世界なんて、ちょっと気味悪いではありませんか。それに、だいいち個性がありません。阿弥陀仏は、なぜこのような世界を建立したいと願われたのか、さっぱり分かりませんでした。
 しかし、ずっとあとになって、わたしは気づくことができたのです。
 じつは、「差別」というものは、対象の側にあるのではありません。対象を見る主体の側にあるのです。
 たとえば、わたしたちは雑草と野草を区別します。自分の庭に雑草が生えると、あわててそれを引き抜きます。けれども、雑草という草があるわけではないのです。同じ草が山野に生えていれば野草ですが、自分の庭に生えるとそれを雑草にしてしまうのです。草そのものには差別がないのに、それを見る人間のほうで勝手な差別をしているのです。
 だとすると、美人と不美人の差別も同じですよね。そこにいる女性には差別なんてありません。女性たちの姿や形が違っていても、それは個性です。
 ところが、わたしたちが「彼女は美人だ」「あの人は不美人だ」と見るとき、そこに差別があります。つまり、差別はわたしたちの心のなかにあるのです。
 だから、阿弥陀仏が極楽世界を差別のない世界にしたいと願われたとき、みんなの姿、形を同一にしようと考えられたのではありません。みんなが個性があって輝いています。その個性的に輝いている人を、見ている側の人間が美人/不美人と差別して見る、そのような見方をする人をなくしたいと願われたのです。わたしは、阿弥陀仏の願いは、そのようなものであると信じています。
 子どもたちはみんな輝いているのです。その子どもたちに優等生/劣等生のレッテルを貼って差別する、現代の日本の教育制度はまちがっています。阿弥陀仏は現在の日本の状況を見て、きっとがっかりされるに違いありません。

カット・酒谷 加奈

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