天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第12号

新しく発心会(ほっしんえ)を展開

 天台宗では、昨年から開宗千二百年慶讃大法会にあたり、檀信徒総授戒運動を進めてきたが、このほど各寺院と檀信徒とが、より一層の絆を深めるために「発心会(ほっしんえ)」を積極的に展開することを決めた。

 発心会とは、全く新しい名称である。
 これまで、一部寺院で行われていた、寺院と檀信徒を結ぶ「入檀式」が、それに近い。
 この新たな布教教化活動は「帰敬式」という名称でこれまで検討、試みられてきたが、天台宗にはなじみが薄い名称であったため、「発心会」と称することとした。「発心」とは宗祖伝教大師が「道心」といわれた菩提心を発することであり、また、「会」は「式」より形式張らない意味を持たせようとするものである。
 いわゆる入信、入檀の意味も持つが、従来行われていた活動と大きく異なるのは、個人が対象という所である。
 これまで、宗門での寺と檀家との関係は、多くは寺対家という構図であった。
 つまりは、住職と世帯主(戸主という方が分かり易い)との関係が強く、檀家の家族は戸主の後ろに隠れていた感がある。それを住職が個々人のレベルまで踏み込んで、「家の宗教」から「個人の宗教」へ展開しようというのが趣旨である。
 伝統宗団では、「個人宗教」への転換を提唱しているところもあるが、天台宗が宗団として打ち出すのは初めて。
 発心会のつとめ方と式次第については、原則的に各寺院住職に一任されるが、担当セクションである大法会事務局では、三帰依文、七仏通戒偈、四弘誓願、を中心としたマニュアルを作成している。更に本格的な作法として、一応、洒水やおかみそりも盛り込まれてはいるが、「これらが、必要ない場合もあるだろう」という。
 住職と個人とで行う方法もあるし、年回法要など一家族で行う形、あるいは施餓鬼法要を利用して大人数での執行も可能である。
 事務局では「いずれにしても、始まったばかり。一朝一夕に出来ることでもない。各寺院で行われた情報は、事務局で把握し、仏教青年会などに協力をお願いしていきたい」と話している。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に体ごと飛び込んでいく。
 まず、飛び込んでいくと、その、辛い、と思う気持ちの中に、自分の体が馴れてくる。

 不思議なことであるが、その、体が馴れてくることで、それほどには、辛いとは思わなくなる。
 これが私の、生活の術なのであった。

「幸福は幸福を呼ぶ」 宇野千代 (海竜社刊)

 人間は、生きていて辛い時があります。
 もがいてももがいても事が好転せず、むしろ悪い方へ悪い方へと運ばれていく時があります。さあ、そんな時はどうしましょうか。
 何とかうまい逃げ道はないものかと、もがき続けるか。また、諦めて投げ出してしまうのか。
 生きていれば、必ずそんな岐路に立つことがあります。
 悩んでいても仕方ありません。むしろ、頭で考えれば、考えるほど事態はこんがらがってくるものです。
 あとから理屈づけて、ああすれば良かった、こうしたから悪くなったといっても、それは原因になる事柄がいくつも複雑に交差してのことで、結果を、事前に知ることは出来ないのです。
 しかし、どのような結果が出ようと、結局はそのことを受けて生きてゆくしかないのです。
 となれば、いちばん後悔しない選択は、困難に真正面からぶつかっていくことでしょう。
 そう思った時に、道は開けるはずです。

鬼手仏心

「時代」   天台宗宗務総長 西郊良光

 ずっと「時代は変る」と聞かされてきた。
 しかし、どのように変るのかは、誰も答えられないという奇妙な状態が続いてきた。その代わりに、良くなる、悪くなるという抽象的、情緒的な言い方がされている。
 そもそも、問題の立て方がおかしいのだと思う。まず、どういう時代、どういう社会を望むのかという所からスタートしなくてはならない。
 終戦直後は食べること、着ることができなかった。しかし、今日本は、物質は充分に行き渡った。
 言い古された言葉で恐縮だが、物から心へと時代は移っている。いや、正式には移りつつあるというところではないか。「カネ」と「モノ」を未だに望みつつ、しかしそれでは満足できない空虚さに「心」の充足を求めて揺れているというところか。
 ある程度の物質的満足はあっても、排気ガスや騒音に囲まれて暮らすより、人々は豊かな四季、清冽な水の流れる川、澄み切った空気などに触れていたいと望むようになった。本気で自分を感動させてくれるものを求めている。
 少子高齢化社会が、訪れようとしている。このキーワードは「寂しさ」だといった人がいた。老いがもたらす心の孤独を、誰がどう癒すのかということだ。
 私たちの多くが直面する問題を置いて、理想社会や幸せを語っても意味がないように思う。信仰を持つということは、また豊かな老いを生きるということでもある。
 一般社会からは、僧侶は葬儀の導師というイメージが強いが、安らかな死を迎える、そこに至るまでの役割を担う存在である。それは、どのような時代が訪れても変らない。

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