天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第82号

12月12日、阿新内局が発足
― 時代に応じた教化の方策を実施へ ―

 阿(おか)純孝新天台宗宗務総長は、新内局の組局を終え、昨年十二月十二日に滋賀院での親授式(任命式)に臨んだ。阿内局は、半田孝淳天台座主猊下より辞令を授与され、任期の四年間を宗務の刷新と公約した人材育成に取り組むべく同日発足した。

 阿天台宗宗務総長は、東京教区の出身。東京教区からの宗務総長、また、参務の就任は十二年振り。一宗の輿望を担っての登板となる。
 今回、同教区から官房長官にあたる総務部長に杜多道雄師(大泉寺)、公約である人材育成、教えの普及を担当する教学部長には大正大学教授であった齊藤圓眞師(龍泉寺)を起用。選出母体である天台宗議会からの推薦を受けて、阿部昌宏師(九州東教区・觀音院)が財務部長に、法人部長には山田亮清師(陸奥教区・東雲寺)が就任。また社会部長には村上圓竜師(東海教区・延命寺)を任命、更に総本山からの推薦により、福惠善高師(延暦寺一山・雙厳院)が一隅を照らす運動総本部長に就任した。
 親授式を終えて記者会見に臨んだ阿宗務総長は、宗祖伝教大師の「あきらけく 後の仏のみよまでも 光つたへよ 法のともし火」という宗歌を引き「光を伝えるには人材を育成して、み教えを弘めてゆくことに尽きる。そのための努力をしてゆきたい」と抱負を述べた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

うれしさにはつ夢いふてしまいけり

正岡子規

 初夢は、縁起の良い順に一富士 二鷹 三茄子といいます。
 富士山、鷹、茄子は徳川家康の好きな物だったので、将軍様にあやかりたいというのがその由来だといわれます。
 それに続くのが扇、多波姑(タバコ)、座頭です。
 これらは当時の宴会の席では欠かせないものだったからというのと、語呂合わせまで諸説あります。
 たかが夢と馬鹿にはできません。ローマの英雄シーザーも夢に従ったことで大勝利を得たと伝えられていますし、平安貴族は夢見が悪いと陰陽師に相談し、物忌みすることもしばしばでした。
 さて、正岡子規はこの句を詠んだ明治二十六年、新聞「日本」の社員となり、月給二十円を稼ぐ身分となりました。松山から東京に母と妹を呼び寄せています。一家の幸せが伝わるような明るい句です。
 「良い夢は人に話すな」といわれます。人に話すと、良い夢が現実にならないからです。
 それでも「嬉しさのあまりに、つい、いってしまった」というのですから、その夢の素晴らしさに読み手も幸せな気分になります。
 「良い夢は人に話すな」というのと反対に「人に話す方がいい」という考え方もあります。みんなに話して福を分けてあげるのがいいというのです。
 それで、みんなが幸せになれるような気持ちで眠りについて、いい夢が見られるというのです。考え方としては、こちらの方が断然素敵です。
 ロサンジェルス五輪の金メダリスト・森末慎二さんは体操で夢を追い続けた人ですが、夢について「日本の辞書で夢と引くと『はかないもの』とか『夜、眠っている時に見る』とか書いてある。これは、どうもつまらない」といい、「アメリカの辞書には『いつか叶うもの』と解説してある」といっています。ホントかな?とは思うものの、こう解釈するほうが夢があるような気がします。

仏教の散歩道

ちょっと損をする布施

 職業欄には「無職」とか「文筆業」と記入するわたしです。自由業なもので、めったに通勤電車に乗ることはありません。 ところが、二十年も昔の話ですが、大学生の息子と一緒に通勤の時間帯に電車に乗りました。始発駅からの乗車なもので、座席は少し空いています。わたしは着座したのですが、息子はわたしの席の前の吊り革につかまって立っています。「なぜ座らないのか?」と訊くわたしに、
 「お父さん、この電車は、すぐに超満員になるんだよ」
 と答えました。それなら、満員になってから席を譲ってあげればいいではないか、とわたしは言ったのですが、それに対する息子の答は、
 「でも、いちいち人に譲るのは面倒だから、最初から立っているよ」
 というものでした。わたしには、そのときは釈然としない答でした。
 だが、ずっとあとになって、わが国、曹洞宗の開祖の道元禅師(一二〇〇―五三)の『正法眼蔵』を読んでいて、その中に、
 《その布施といふは不貪(ふとん)なり。不貪というは、むさぼらざるなり》(「菩提薩埵四摂法」(ぼだいさったししょうほう))
 とあるのを見つけたとき、〈ああ、息子が言っていたのはこのことなんだな〉と気がつきました。
 わたしたちは、他人に財物などを施すのが布施だと思っています。したがって、満員電車の中で、老人や身障者に席を譲ることも布施になるでしょう。しかし、その場合、〈老人が気の毒だから座らせてやる〉と考えて譲ったのでは、本当の布施にはならないでしょう。なぜなら、譲る側の人に優越感が生じ、老人に対する軽蔑の心があるからです。
 ですから、わたしは、施しが真の布施になるためには、施したほうが受けてもらった人に、
 「ありがとう」
 を言わねばならない、と説明してきました。普通のお恵みであれば、そのお恵みを受けた人間が「ありがとう」を言います。しかし、仏教の布施は、施したものが「ありがとう」を言うべきなんです。それが普通の仏教的解釈です。
 しかし、道元禅師の解釈はそうではありません。満員電車の中で、はじめから座らず立っているのが真の布施だ。われわれはみんな座りたいといった気持ちを持っています。その気持ちを抑えて、自分は疲れるけども、少しがまんをして立っている。そうすると、座りたい人が座れるようになります。それが本当の布施だと、道元禅師は言われているのです。
 ということは、布施というのは、他人に恩恵を施すといった傲慢な気持ちを捨てて、自分がちょっと損をすることなんですね。だとすると、どうやら息子のほうが正しかったようです。

カット・酒谷 加奈

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