天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第79号

アウシュビッツへの追悼巡礼を行う
-ポーランドで第23回「世界宗教者平和の祈りの集い」-

 聖エジディオ共同体が主催する第二十三回世界宗教者平和の祈りの集いが、九月六日から八日までポーランドのクラクフで開催された。今回はアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を慰霊に訪れ、国際記念碑前で追悼のセレモニーを行った。天台宗は、名誉団長である杉谷義純宗機顧問以下二十九名の代表団を派遣した。

 代表団は、六日のオープニングセレモニーに合わせてクラクフ入りし、七日に行われた各部会におけるパネルディスカッションでは、杉谷宗機顧問と濱中光礼天台宗宗務総長がそれぞれスピーチを行った。両師は、部会のテーマに添いつつ、人類が行った最も大きな悪の一つであるアウシュビッツ強制収容所の悲劇について触れ、平和のために今以上に努力を続けることを誓った。 
 さらに同集いに参加した世界各国の宗教者千五百名は、八日、数百万人に上る犠牲者を出したといわれるアウシュビッツ強制収容所を訪問。併設された博物館で、犠牲者の髪の毛や、靴などのおびただしい遺品に触れ、あらためて戦争と差別が、人間を狂気に追いやる実態への認識を深めた。
 そして、アウシュビッツ二号であるビルケナウ強制収容所にナチスが犠牲者を送り込んだ線路に沿って、千五百名の宗教者たちは、ガス室があった場所に設けられている国際追悼記念碑まで、約二キロを無言のまま行進した。
 セレモニーでは、各国の宗教代表者が献花を行い、未だに墓標もない多くの犠牲者の冥福を祈った。
 仏教は、杉谷宗機顧問、西郊良光宗機顧問、濱中宗務総長、栢木寛照天台宗宗議会副議長らが中心となって行われた。
 また、カトリック、ユダヤ教の代表がそれぞれスピーチを行い、二度と過ちを繰り返さないことを誓った。
 同日は、夕刻に各宗教で平和祈願法要が行われたあと、クラクフのマーケット広場で平和の行進が行われた。
 このファイナル・セレモニーにおいて、杉谷宗機顧問はアジアの宗教者を代表して、スピーチを行った。ファイナル・セレモニーの場で天台宗がスピーチを行うのは、山田惠諦第二百五十三世天台座主猊下、半田孝淳天台座主猊下に続いて三人目である。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

V・E・フランクル『夜と霧』

 フランクルは、奇跡的にアウシュビッツから生還した心理学者です。
 その著書『夜と霧』は、アウシュビッツ収容所の様子を克明に描き、かつ地獄の中でも人間の崇高さを失わなかった人の記録として魂を震わせる名著です。
 原題は「それでも、生にしかりと言う」という意味ですが、邦訳される時に「夜と霧」とされました。夜や霧にまぎれて、人々がどこともなく連れ去られたという歴史を示しています。
 彼らを迫害して殺害したのは、ナチスドイツばかりではなく、彼らの同胞達もまた生き延びるために、ナチスの協力者(カポー)になりました。
 彼らはナチスに代わって仲間に毒ガスを流したり、密告をしたりしました。それによって、一瞬生き延びることが保証されたのです。ナチスは、自分たちは手を汚すことなく、人間の一番弱いところを利用して殺戮をおこなったのです。 「生き延びることが、ナチスに対する抵抗だ」という彼らを責めることはできません。しかし、そんなことはしたくないと思った人たちもいたのです。その人たちには、死が待っていました。
 フランクルは、絶望が支配する収容所の中で「過去の生活で、心の宝物としているものは、この世のどんな力も奪えない」と語りました。そして、涙を浮かべながら、彼に礼を言うために、よろめき寄ってくるボロボロの仲間の姿を見るのです。
 生き延びるために残虐非道の限りを尽くす人々もいれば、絶望しかない状況の中でも人間の輝きを失わない人もいたということは、人間の素晴らしさ、高貴さを証明するものです。
 そのフランクルにして「いい人は、帰ってこなかった」と言うのですから、言いようのない思いにとらわれます。
 フランクルは解放された日に「うれしいとはどういうことか忘れていた。それは、もう一度学び直さなくてはならない何かになっていた」と述べています。

鬼手仏心

青蓮院の「青不動」様  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 天台宗京都五箇室門跡のひとつ、青蓮院門跡の国宝「青不動」様がこのほど、初めてご開帳され、間近でお参りさせていただけることとなった。
 青蓮院門跡が創建されて以来、門外不出の秘仏として、九百年に亘って伝えられてきたこの「青不動」様は、平安時代の仏画である。正式名は「絹本著色不動明王二童子像」で、「国宝中の国宝」と言われている。
 お身体の色が青黒いことから、通称「青不動」と呼ばれ、高野山の「赤不動」、三井寺の「黄不動」(その模写の曼殊院の黄不動)とともに「日本三不動」のひとつに数えられている。
 不動明王という仏様は、大日如来のご化身としてこの娑婆世に応現され、煩悩にとらわれ、執着の紐でがんじがらめになっている私たち衆生を救わずにはおかないという、深い慈悲心を忿怒の相で顕した仏様である。
 右の手の剣は煩悩や執着を断ち切る智剣であり、左手の紐は快楽を求め、仏の教えから逃れようとする度し難い衆生を絡め取り、正しい仏の道に連れ戻さんとする絹索である。
 今回のご開帳にあたって、東伏見慈晃青蓮院門跡門主は、「道徳心の荒廃が顕著になった現代、つらい事件があまりにも多すぎます。この混迷の世の中で、青不動の強いお力を授かり、いろいろな問題を少しでも良い方向に導いていただきたいと考え、ご開帳を行うことにいたしました。是非、見物としてではなく『お参り』に来ていただき、実物をご覧になって、青不動明王の強い力を感じながら拝んでいただきたいと考えております」とその意義を述べられている。
 ご開帳期間は十二月二十日までで、この機会に是非、お参りいただきたいものである。

仏教の散歩道

仏は魔法使いではない

 ある中小企業の社長が、経営危機に直面し、東奔西走の苦労をしました。ついに血尿まで出る有様でしたが、結果的にはその会社は倒産してしまいました。その社長は熱心な仏教徒であったのですが、心労・苦労の中で、
 「ほとけ様はちっともわたしを助けてくれない。俺は仏に見放されたのか?!」
 と思ったそうです。そして倒産したあとは、
 「自分はあれほど倒産を怖(おそ)れていたが、倒産なんてこれぐらいのことか?! なにもそれほど怖れる必要はなかったのだ」
 とようやく悟ることができました。彼はわたしに、そのように話してくれました。
 ちょっと考えさえられる話です。
 わたしたちは、仏の救いというものを誤解していないでしょうか………?
 仏は、金策に駆けずり回っている人に金を与える。病気の人の病気を治す。学校の劣等生の成績をよくする。そうすることが仏の救いでしょうか?!それなら仏は、わたしの願いを何でも聞いてくれる魔法使いになってしまいます。
 仏の救いというものは、そんな魔法ではありません。
 たしかに仏は、あらゆる人、すべての人を救われます。この人の悩みは救ってやるが、この人は救わない。そんな仏ではありません。いっさいの衆生を救われるのが仏です。
 だが、まちがえないでください。仏は、それぞれの人の個別な願望を叶えてやろうとされているのではありません。そうではなくて、あらゆる人がそれによって救われる、一つの「道」を説いておられるのです。その道がすなわち、
 -仏道-
 です。あなたがたはこの仏道を歩みなさい。ゆったり歩みなさい。そうすると、必ずあなたがたの悩みは消えてしまうよ。悩みがなくなるよ。仏はわたしたちにそう教えてくださっているのです。 
 社長であれば、金策に駆けずり回る苦労はしっかりとすべきです。しかし彼は、自分の会社を潰したくないという「欲望」から離れないといけません。病気になって、病気を治そうとする努力はすべきです。でも、病気を治したいという「欲望」は捨てるべきです。
 会社が潰れるか否か、病気が治るか治らないか、それらは思うがままにならないことです。思うがままにならないことを思うがままにしようとすれば、必ずや苦しみが生じます。わたしたちが苦しみ、悩むのは、ほとんどの場合、思うがままにならないことを思うがままにしようとしているからです。すなわち「欲望」の故に悩んでいるのです。
 仏は、だから「欲望」から離れてごらん、そうすると楽になれるよ、と教えてくださっています。そうして、楽になった上で金策に東奔西走すればいい。それが仏の救いだと思います。

カット・酒谷 加奈

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