天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第77号

「発心会」を厳修、寺檀の絆を深める
-第40回天台宗兵庫教区檀信徒総会・一隅を照らす運動推進兵庫大会-

 天台宗が推進している「発心会」が、去る六月二十六日に兵庫県姫路市(姫路市文化センター)で執り行われた。「発心会」は、同日に開催された第四十回天台宗兵庫教区檀信徒総会並びに一隅を照らす運動推進兵庫大会で行われたもので、住職、副住職、檀信徒約三百人が参加。「発心会」が推進大会で営まれるのは、前回の滋賀・三岐大会に続いて三回目となる。

 天台宗では発心会について「檀信徒にそれぞれの寺院のご本尊と縁を結ぶことにより、仏教徒、天台宗檀信徒としての自覚と宗教的な拠り所をもってもらう儀式であり、宗祖伝教大師の言われた『道心』を発(おこ)す、発菩提心の機会で、信仰啓発の機縁」として推奨している。
 戦後日本の社会状況を振り返ると、家族構成の変化、地域社会での人間関係の疎遠などがあり、その基本構造の変化は寺檀関係にも深刻な影を落としている。
 つまり、法事や葬儀の時だけのつながりで、「信仰」そのものでの寺院と檀信徒とのつながりが希薄になっているという危惧がある。
 従って、寺院と檀信徒との関係を強化し、「個」の信仰を深めていくことが、今求められている。個人の菩提心を発し、いかに信仰を家から個へ移行させていくか。「発心会」の定着と持続が今後の課題となる。
 今回の発心会は、教区実行委員会の決定に基づき、推進大会の講演に代わって営まれた。法儀研修所のメンバーと檀信徒代表によって行われ、虎熊光城指導員が司会となり、茂渡俊慶主任指導員が「発心勤行儀」に基づいて、それぞれの法儀内容を解説する形で進められた。
 導師は雲井明善兵庫教区法儀研修所所長。
 茂渡主任指導員は、発心会で行われる、三宝(仏・法・僧)に心の全てを捧げ礼拝する「三礼(さんらい)」、自分が犯した過去の過ちを懺悔する「懺悔文(さんげもん)」、三宝に帰依する「三帰依文」「三帰三竟」などについて、詳細に解説した習礼(しゅらい)(予行演習)を行い、その上で改めて発心会が行われた。
 発心会は、習礼も含めて一時間五分であった。  
 発心会に先だって開催された檀信徒総会の開会式では、中戸運幸兵庫教区檀信徒会副会長の開式の辞で始められ、田中敏道同会長挨拶と草別碩善兵庫教区宗務所長が挨拶。
 続いて秋吉文隆一隅を照らす運動総本部長が来賓として祝辞を贈った。
 その後、檀信徒会の平成二十年度活動報告と決算、二十一年度活動計画案と予算案が審議され了承された。
 今年度活動計画は、同日の大会を始め、三十八回目となる祖山参拝や全国一斉托鉢などで予算案は約四百五十三万五千円。
 引き続き行われた一隅を照らす運動推進兵庫大会では、各寺院から三名の実践発表が行われた。
 一隅を照らす運動推進者表彰では、赤田津多子不動院檀徒、内藤政義悟真院総代長、山田馨随願寺愛存会会長、朝野久夫正福寺檀徒総代、高見津世司白毫寺藤愛好会企画部長の五氏に秋吉総本部長から表彰状が贈られた。今大会は「発心会」が執り行われたこともあり、参加者の熱気が溢れていた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

今度はもっと間違いをおかそう。
もっと寛ぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、
もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど 殆ど無いのだ。

ピーター・ドラッカー/「人生をやり直せるのなら」

 ピーター・ドラッカー氏は、米国クレアモント大学院で社会科学とマネジメント理論を教えるかたわら、経営コンサルタントとして高い評価を得、「経営の鉄人」とか「マネジメントの父」と呼ばれた人です。
 彼の著書「断絶の時代」 をもとにしてイギリスのサッチャー首相は「民営化」を推進したと聞けば、専門外の身にもその影響力の凄さを感じます。
 その経営の鉄人が「人生をやり直せるなら」という詩を書いたことも驚きですが、その内容が「もっと間違いをおかそう。 もっと寛ぎ、もっと肩の力を抜こう」というのですから、びっくりします。
 更に彼は「もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。 もっとたくさんのチャンスをつかみ、 行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう」というのです。
 経営とマネジメント理論を確立したドラッカー氏と「もっと馬鹿になろう」というドラッカー氏はどちらが本当なのかと言いたくなりますが、その鍵は「もう一度最初から人生をやり直せるのなら」ということにあるようです。
 その完璧な理論で社会的名声と富を得ても、「幸せ」や「望ましい生き方」という視点から自分の人生を振り返ると「もっとたくさんの子どもたちと真剣に遊ぼう、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう」ということになるようです。
 ドラッカー氏は「自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだりして生きるのはやめよう」と提唱します。仏教が教えていることと同じです。偉大な経営学者は、晩年になって仏教徒のおおらかさを手に入れたようです。

鬼手仏心

全ての人々に平安を  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 平和を祈る比叡山の夏が今年も巡ってきました。一九八七年に比叡山宗教サミット「世界宗教者平和の祈りの集い」が開催されて以来、二十二回目の夏です。今年は、ゲストとして、ローマ教皇庁諸宗教対話評議会議長のジャン=ルイ・トーラン枢機卿をお迎えし、八月四日午後三時より「世界平和祈りの集い」が行なわれます。
 私たちの願いはささやかなものです。日暮れ時、家族が揃って食卓に着き、感謝とともに夕食をとる。子どもたちは、今日一日、新しく経験した様々な出来事を、きらきら輝く瞳とともに語り、明日への期待を胸に床に就く。そんな平凡な毎日を続けることが、大それた願いでしょうか。私たち庶民にとって平和とはこんなことなのです。このささやかな願いさえも、叶わぬ多くの人々が世界にいます。
 二〇〇七年に私たちは世界の宗教者とともに、比叡山宗教サミット二十周年を開催し、「和解と協力」を世界の指導者に呼びかけました。互いを疑い、恐れ、憎悪することを止め、対話を通して互いに理解しあう努力が重要であり、先ず自ら和解の手を差し出す勇気をもって行動することを訴えてきました。
 地球人口六十七億人という時代を迎え、限りある資源をどうするか、また温暖化による環境変化が危機的な状況となった今、反目や争いに費やす時間はありません。譲り合う知恵をどのように出し合うか。いまこそ人類の英知を集める必要があります。協力の輪をしっかりと築くことが地球の未来にとって最大の課題であります。今年の比叡山上の平和の祈りでも「世界平和の鐘」の音に乗せて、このことを訴えます。全ての人々に平安がもたらされますように。

仏教の散歩道

いわゆる「変人」が仏教者

 『アンデルセン童話集』(大畑末吉訳・岩波文庫)に「みにくいアヒルの子」があります。有名な話ですね。
 本当は白鳥の子なのに、アヒルの卵に混じって孵化(ふか)され、アヒルのお母さんに育てられた一羽がいます。それで、アヒルの物差しからすれば、その子は「醜い」のです。でも、お母さんアヒルは最初は、
 《この子はきりょうよしではございません。けれども、気だてのよい子でして、それに泳ぎもほかの子に負けずに、いえ、ことによると、いくらかじょうずなくらいですの! ……それに、この子は男の子でございますもの。きりょうなんてことは、たいしたさわりにはなりませんわ。この子はきっと強くなって、りっぱにやりぬいてゆくと、わたしは信じておりますの!》
 と言っていました。でも、それは長続きしません。白鳥の子はみんなにいじめられて、ついにお母さんまでが、
 《いっそどこか遠いところへ行ってくれたらねえ!》
 と言うようになりました。
 もちろん最後は、その子は白鳥の仲間に迎えられ、幸福になります。ハッピー・エンドのお話です。
 ところで、わたしはこの話を思い出して再読して考えたのですが、ひょっとしたらこの醜いアヒルの子は、
 ―仏子―
 ではなかろうか、と思いました。「仏子」というのは、『法華経』譬喩品(ひゆほん)の中で、
 《今、この三界は 皆、これ、わが有なり。その中の衆生は 悉(ことごと)くこれ吾が子なり》
 と釈迦仏が言っておられるように、われわれ衆生はみんな釈迦仏の子なんです。仏の子が、ちょっとした事情があって、一般世間の人と一緒に住み、育てられているのです。そう考えたほうがよいと思います。
 つまり、仏教者というのは、「醜い世間の子」なんです。本当は仏の子であって美しいのに、世間の人とだいぶ違っているもので、その世間の人を標準とする物差しでもって測ると「醜い」と評価されてしまうのです。
 ということは、これを逆に考えるなら、仏教者は世間一般の人々とちょっと違ったものの考え方をすべきなんです。世間で言う普通の人であっては、仏教者にはなれない。世間の人から「変人」だと見られた人が、本当の仏教者なんでしょう。
 たとえば、世間の人は、損をするのが大嫌いです。損なんてしたくない。得をしたい。そう考えているのが世間の普通の人です。
 それに対して、〈ちょっとぐらい損してもかまわない〉と考えることができる「変人」が仏教者でしょう。満員電車の中で、たしかに立っているのは疲れますが、まあ、自分は若いんだから立っていてもいいよ……と考えられるのが仏教者です。そしてそれが布施のこころだとわたしは思っています。

カット・酒谷 加奈

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