天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第74号

信州善光寺で前立本尊の「御開帳」

 信州善光寺(長野市)の「善光寺御開帳」が四月五日、開闢した。この御開帳は、七年に一度行われる同寺最大の盛儀。御開帳の期間は五月三十一日に営まれる結願大法要まで、約二カ月に亘り、中日庭儀大法要はじめ様々な法要、奉納行事が執り行われ、期間中は全国から数百万人の参拝者が訪れる。

 善光寺の御本尊は、「一光三尊阿弥陀如来」と称されているが、これは阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三体の仏様が一つの光背を纏うことからきている。
 この御本尊は、欽明天皇十三(五五二)年、仏教伝来の折、百済から渡ってきた日本最古の仏様と言われており、その約百年後、今から千四百年ほど前から絶対秘仏となっている。従って、その後は、前立(まえだち)本尊が祀られてきたが、今ではその前立本尊も秘仏化し、拝観できるのは御開帳のみとなっている。
 開闢の五日に先立って三日には「大回向柱」が建立された。この大回向柱は、高さ約十メートルで、前立本尊の御手と「善の綱」によって結ばれ、参拝者はこの綱に触れることにより、御本尊の阿弥陀如来と直接触れるのと同じ功徳が得られるとされる。
 翌四日には、午後三時より「前立本尊御遷座式」が執り行われ、御宝庫に安置されていた前立本尊が本堂内々陣まで御宝輦により運ばれ、御遷座となった。続いて「回向柱開眼法要」が行われ、回向柱に巻かれた白布が取り除かれると、前立本尊との縁を結ぼうと多くの参拝者が幾重にも取り巻き、願い事を祈りながら回向柱に触れていた。
 五日は午前六時の「お朝事」(お勤め)で小松玄澄善光寺大勧進貫主により、秘仏の前立本尊が祀られている厨子が開けられ「一光三尊阿弥陀如来」の姿が現れると、早朝より参集した参拝者の間から大きな祈りの声が湧き起こっていた。引き続き午前十時より「御開帳開闢大法要」が厳修され、五月三十一日まで、五十七日間の御開帳のスタートとなった。
 なお、この御開帳に合わせ、同寺と縁の深い元善光寺(長野県飯田市)、祖父江善光寺東海別院(愛知県稲沢市)、関善光寺(岐阜県関市)、岐阜善光寺(岐阜市)甲斐善光寺(山梨県甲府市)の「善光寺」五カ寺でも、史上初めての同時御開帳が行われている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

人生は、にこにこ顔で生命がけ

平澤 興

 故平澤興先生は、京都大学元総長で、脳神経解剖学の世界的権威であり、仏教に深く帰依されていた医学者です。
 終生、あらゆるものから学ぼうという情熱は変わることがありませんでした。「いくら勉強しても、勉強しても、最後に分かったことは、いかに分からんかということだ」という言葉は、斯界の泰斗とは思えぬぐらい謙虚です。
 人は、誰でも百四十憶個の膨大な脳神経細胞をもって生まれています。その膨大な数の脳神経細胞は、一部だけが使われ大部分は眠っているといわれます。
 「眠っている脳神経細胞が目覚めるのは、情熱に火がついた時である。目の前が急に明るくなり、体が熱くなるような思いをした時である」と平澤先生はいいます。
 光顔巍々(こうげんぎぎ)という言葉があります。大無量寿経を説かれようとした時に、お釈迦様の顔が、光り輝いてくる様子を表現したものです。
 平澤先生にとって、すべての脳神経細胞が活性化するイメージとは、このお釈迦様の姿だったのかも知れません。
 先生はいつも他者の言葉に謙虚に耳を傾ける、穏和な方だったといわれますが、その裏には自分の職責に命がけで精進される姿がありました。仏者としても、医学者としても、いや、あらゆる社会で生きる人々の理想の生き方ではないかと思われます。
 悲愴な顔で精進、ニコニコ顔でチャランポラン、どちらもいただけません。他者には優しくニコニコ顔、さながら春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という様子で接しながら、自分自身の道は命がけで歩むというのは、よほど自分を律しなくてはなりません。 
 平澤先生は「情熱に火をつける方法はただ一つ、長所に光を当てそれを伸ばすことである。これに反し欠点をほじくり返すのは、まるで情熱に冷水をかけるようなとんでもない振る舞いである。長所を伸ばそうとする時、人は決まって生き生きとし、血のたぎる思いをする」と指摘されています。

鬼手仏心

安西筑前宝塔院跡  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 太宰府市の郊外、北東の方角に小高い山がある。標高八百三十メートルの宝満山である。この山は古来から、信仰の山として地元の人々に親しまれ、今も休日には多くの人が山歩きを楽しんでいる。山の裾野の登り口には竈門(かまど)神社がある。旧には竈門山寺のあった所だ。昨年、この山の中腹から、伝教大師縁の宝塔の遺跡が発掘された。
 宗祖伝教大師は天台の教えを求め、遣唐使船に同乗され、唐の国に渡られる。延暦二十二(八〇三)年四月に難波(なにわ)を出発された大師は、風待ちのため九州に滞在、この竈門山寺に籠(こ)もり入唐求法(にっとうぐほう)の無事を祈願されている。
 明けて延暦二十三年七月、遣唐使船四隻の内、第二船に大師は乗船され、肥前松浦から船出された。当時の航海は真に命がけであり、伝教大師和讃ではこの様子を「俄に風雲吹き起こり 水面くらく成りければ 仏舎利海に投ずるに 風止み波も静かなり」と現している。
 ちなみに四隻の内、無事に中国へ行き着いたのは第一船と第二船だけであり、奇しくもこの第一船に弘法大師空海が同乗していたことは、人智を超えた仏縁の不思議を感ずる。
 無事求法の目的を果たし、帰朝された大師は、延暦二十五年に天台年分度者二名を賜り、ここに日本天台宗が開宗するのである。 
 大師はこの後、大乗国日本を作るため、法華経一千部を納めた宝塔を全国の東西南北そして中央と、全てをまとめる総塔の六カ所に建立する願を発される。六所宝塔の構想である。その西を守る塔(安西宝塔)の遺構が、この宝満山中腹で発掘調査されたのである。法華経による仏国土建設という宗祖の願いが籠もったご遺跡として顕彰護持し、祖意の実現に更なる精進を重ねたい。

仏教の散歩道

いい世の中と悪い世の中

 前回の続きを考えてみます。前回は、どんな世の中であっても、幸福に生きている人もいるが、不幸に泣いている人もいる。だから、わたしたち仏教者は、不幸に泣いている人のことを忘れてはいけない。そういうことを書きました。
 そのことを前提にして、もう少し考えたいことがあります。 それは、仏教者は、いい社会をつくろうとしてはいけないということです。どうもわたしの発言は非常識で、よく誤解されるのですが、仏教者は世の中を良くしようなんて思わないほうがいいと思います。
 なぜかといえば、いつの時代、いかなる国にあっても、一方には大きな利益を享受して幸せに生きている人もいれば、他方には不幸で泣いている人もいるからです。その社会の全員が幸福であるような社会は、絶対にありません。
 いかなる国にも、日の当たる場所にいる人と日の当たらぬ場所にいる人、支配者と被支配者、特権階級と下層民がいます。階級の対立のない共産主義社会なんて、夢でしかありません。
 しかも、ですよ。大きな利益を享受できる人々にとっては、不幸に泣く人が大勢いたほうがいいのです。貧乏人が増えれば増えるほど、その富は少数の金持ちに集中されます。逆に貧乏人が少なくなれば、金持ちはあまり富を所有できません。プラスとマイナスは釣り合いがとれてゼロになるからです。
 そうすると、金持ちにとってのいい社会は、貧乏人が多くなることです。損をする負け組が多いほど、得をする勝ち組が幸せになれます。それはお分かりいただけますよね。
 では、いい社会をつくるということは、どういうことでしょうか……? 勝ち組の立場からすれば、負け組の損を大きくすればするほど、勝ち組にとってはいい世の中になるわけです。つまり、負け組の人たちが泣きの涙で暮らさねばならない社会であれば、勝ち組にとっていい社会になるのです。
 だとすると、仏教者は「いい世の中」をつくるために努力すべきでしょうか? 
 そうではありませんね。
 もちろん、仏教者は、世の中を悪くするように努力すべきだ、というのではありません。
 そうではなしに、わたしたち仏教者は、どんな世の中であっても泣きの涙で暮らしている不幸な人たちがいることを忘れるべきではないのです。そして、法然上人や親鸞聖人、日蓮聖人、その他さまざま高僧たちが、その不幸な人々に救いの手を差し伸べられたのだということをしっかりと記憶しておきたいのです。また聖徳太子が、
 《世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)》(世間はうそいつわりで、ただ仏のみが真である)
 と言われたことも銘記しておきたいですね。仏教者は、あまりこの世の中に執着すべきではないと思います。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る