天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第73号

持ち去られた仏様が寺院に還る

 昨年来、京都市内では相次いで仏像盗難事件が起き、天台宗の寺院でも山科の毘沙門堂門跡(叡南覚範門主)、大原の宝泉院(藤井宏全住職)が被害にあったが、幸いにも、仏様は還られている。各地でこうした事件が起きており、寺院としても被害を未然に防ぐ為に、防犯対策の強化も検討しなければならないが、一方、信仰の面では、仏様と参拝者との距離が遠くなるとの危惧もあり、この問題は寺院にとっては対策が難しい。

 毘沙門堂門跡では、昨年十月にご本尊の毘沙門天像のお前立ちとして安置されていた鎌倉時代初期の毘沙門天像が盗難に遭っていた。また、宝泉院でも、昨年九月十五日夕刻、客殿に安置されていた韋駄天像がなくなっていた。幸いにも、両寺ともに仏様は損傷は少なく還られている。
 今回の件について毘沙門堂の大森行隼執事長は「仏様が還ってこられることになり、安堵しております。ご来山の皆様に再び拝して頂けることとなり嬉しい限りです」、藤井宝泉院住職は「押収物の映像を見た時、すぐに盗まれた仏様と分かりました。一時は新たに仏像を仏師に彫って頂こうかとも思っておりましたが、これで安心しました」とそれぞれ仏様が戻られることの喜びを語っている。
 仏像盗難の背景には、仏像に対する日本人の意識の変化を上げる仏教者もいる。信仰の対象として仏様を拝むという意識よりも、絵画や骨董品と同じ「美術品」として考える傾向があると言うのだ。
 だからといってお祀りする側の寺院も美術品として厳重にケースに入れたり、倉庫に保管するわけにはいかない。安全面からすれば、その方が安心だが、まず信仰の対象であるからだ。
 近年は、国の文化財ではなく、自治体指定の文化財、無指定の仏像が盗難に遭っている。それも無住職寺院であるとか、施錠もなされない建物などにお祀りされている仏像が多い。
 従って寺院においては、強固な防犯対策が取れない以上、たとえ無指定でも、写真や大きさ等の記録を作成し、日々注意を怠らないことが肝要と指摘されている。

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 仏像盗難事件
 昨年来、京都市内の寺院では仏像盗難が相次いでいたが、建仁寺で一月末に起きた仏像盗難の件で、三月初めに逮捕された容疑者の会社経営者宅の押収物から毘沙門堂と宝泉院の仏像も発見された。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

上手いだけじゃ、人は感動しないんだよ。たぶん。

加藤和彦・映画 『サディスティックミカバンド』より

 サディスティックミカバンドは、一九七二年に結成され、解散と再結成を繰り返した伝説のバンドです。
 二〇〇七年三月八日に、NHKホールで行われた十八年ぶりのライブを、井筒和幸監督がドキュメンタリー映画として撮りました。その中でリーダーの加藤さんが「(楽器のテクニックの)上手い人はいるけれど、上手いだけじゃ人は感動しない」と言うのが印象的でした。
 かつて、高名な陶芸家にお話を聞いたことがあります。「毎日、お茶を飲んだり、食事に使う器は、温かみがなくてはなりません。温かみというのは、気分がホッとする、つまりどこか抜けたところがあるということです。一分の隙もないというのは息苦しい。それよりは、むしろ端っこが欠けたりしている方が好ましい」と言っていました。
 お釈迦様はたくさんの弟子をお持ちでしたが、その一人に周利槃特(しゅりはんどく)という人がいました。彼は、三年かかってもお経を一行も理解できなかったので、愚路(ぐろ)と呼ばれて、人々からあざ笑われていた人です。
 周利槃特が、自分の愚かさを嘆いているのを見てお釈迦様は 「愚者でありながら、自分が愚者であることを知らないのが本当の愚者である。お前は、自分が愚者であることを知っている。だから、お前は、真の愚者ではない」 と周利槃特に一本の箒を与え「塵を払い、垢を除かん」と言いながら掃除をするよう命じられました。
 周利槃特は、何十年も、この一句を唱えながら掃除をし、ついに阿羅漢(聖者)となったと言われています。
 世間は、頭脳明晰、弁舌爽やか、目から鼻に抜けるという人ばかり評価しがちですが、本当に親しみを感ずるのは周利槃特のような人だと思うのです。
 「悟りを開くということはたくさん覚えることではなく、たとえわずかなことでも、徹底すればそれでよいのである」とお釈迦様は教えておられます。

鬼手仏心

黄砂の季節  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 春本番。うららかな日和に誘われてあちこち散策の楽しい季節である。
 少し郊外へ足を伸ばすと、雲雀(ひばり)の声が霞(かすみ)の空から聞こえてくる。何処で鳴いているかと見上げるが、高く上がっているのか姿も見えない。でも最近、姿が見えないのは春霞が黄砂によって一層ひどくなっているからではないだろうか。
 黄砂は、中央アジア一帯に広がる砂漠地域に発生する砂嵐によって巻き上げられた砂粒で、直径が〇・〇〇五ミリ以下のものが偏西風に乗って飛んでくる。黄砂自体は、太古の昔から飛来してきたが、現在ではその発生量が、年間で二億から三億トンに上ると言われている。
 洗濯物が黄ばんだり、視界が悪くなったり、またビニールハウスに付着して作物の生育を妨げたりする被害が多いが、これだけでなく呼吸器などの健康被害も報告されている。
 最近は砂塵に混じって残留農薬も検出されており、発ガンの危険性も指摘される。とにかく春先、杉花粉とともに悩みの種の一つとなっている。
 近年になって黄砂による被害が深刻化してきたが、その原因は、中央アジアの砂漠が年々拡大してきたせいである。もともと降水量の少ない地域だが、以前は移動式の放牧や、休耕地を作って雨水を蓄える天水農法などで、乾燥化を防いでいた。その伝統的な方法が人口増による需要拡大で崩れてしまったのが、黄砂の大量発生につながっている。
 一隅を照らす運動総本部では、今年、中国内モンゴル自治区の植林事業にボランティア団を派遣する。大海の一滴かも知れないが、一滴が集まって大海ともなる息の長い事業である。その成果を期待したい。

仏教の散歩道

不幸な人を忘れるな!

 この問題は論ずることがむずかしいのですが、避けて通ってはいけないと思いますので、わたしの考え方を書いてみます。
 わたしはいろんな機会に僧侶の方とお話します。で、そのとき、僧侶のうちに、
 「日本という国はいい国ですよ」
 と言われる方が多いのですが、そうするとわたしはつい反論したくなります。実際に表立って反論しないまでも、心のうちでは、
 〈仏教者たる者、そんなことを言ってよいのだろうか……〉
 と思ってしまうのです。
 というのは、いまの日本において、たとえば勤めている会社を解雇され、職を失って路頭に迷っている人が大勢います。いや、すでにホームレスになっている人も大勢います。あるいは学校でいじめにあっている子どもたち。交通事故で大怪我をしたり、死んでしまった人。そういう不幸な人が大勢います。
 そういう人々にとって、本当に日本はいい国でしょうか……?
 日本をいい国だと言ったとたん、わたしたちは不幸な人々の存在を忘れてしまっているのです。
 もっとも、会社を解雇された人は、その人の能力が低かったからだとも言えそうです。交通事故にあうのは偶然でしょうが、不幸な人々のうちには、その不幸になった原因が少なからず自分にあることは否定できません。でも、だからといって、われわれはその不幸な人々を無視していいでしょうか。仏であれば、きっと不幸な人々に胸を痛めておられるに違いありません。したがって、仏教者であれば、そういう不幸な人々に同情すべきだと思います。
 それから、ひょっとすれば、他の国とくらべて日本にはそういう不幸な人の割合が少ないから、日本はいい国だと主張される人もいるでしょう。しかし、政治家がそのように言うのは分かりますが、仏教者はそのような考え方をすべきではありません。その点では、童話作家の宮沢賢治(一八九六~一九三二)が、
 《世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない》(『農民芸術概論綱要』)
 と言っていますが、これが仏教者の考え方だとわたしは思います。
 では、わたしたちは日本についてどう考えればいいのでしょうか?
 大乗仏典の『法華経』は、三界(われわれが住んでいるこの全世界)は、
 ―火宅―
 だと言っています。火事で燃えている世界です。つまり、いつの時代、いかなる国も、理想の世界ではありません。必ずそこには泣いている不幸な人がいるのです。
 自分はこの世界で利益を享受しているからといって、不幸な人々のいることを忘れてはならない。というのが仏教の教えではないでしょうか。
 わたしはそう考えています。

カット・酒谷 加奈

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